子供の頃の夢「床屋さん」
私、伊藤知子は昭和20年に福島県会津若松市の呉服屋の長女として生まれました。
知子という名は、母の妹で喜多方の五瓶呉服店(仮称)に嫁に行ったミヤエ姉さん(仮名)が名付けてくれたと聞いています。
私には成績優秀の長兄「あんちゃん」と、私に雪をぶつけていた男の子3人をあっという間にぶっ飛ばして助けてくれる程喧嘩の強い親分肌の2番目の兄「ひらあきちゃん」と、私と喧嘩ばかりしていた弟の「おこちゃん」という兄弟がいました。
私はその4人兄弟の3番目で、兄弟の中ではたった一人の女の子でした。
そのせいか、父は私の事が可愛かったのだろうと思います。
何故なら他の兄弟は幼稚園も小学校も中学校もごく普通に公立で、
私だけを幼稚園から私学のザべリオ学園幼稚園に入園させたからです。
会津若松ザべリオ学園は幼稚園入園時からクラス担任のカナダ人シスターが英語を教えるという、幼稚園、小学校、中学校、高校の一貫教育私学でした。
そして、私はその頃から習字、算盤、琴まで習わせてもらっていた私ですが、
私の夢はザべリオで慣れ親しんでいる英語の先生になる事でもなければ、
習字の先生や琴演奏者になる事でもありませんでした。
もちろん、おかげで琴や英語は好きにはなりましたが、
それは何故か将来の夢ではありませんでした。
また、これは今でも東京に住む2番目の兄ひらあきちゃんと電話で話すと出る事ですが、長男は剣道を習わせてもらって東京の大学に行かせてもらい、
末っ子のおこちゃんも東京の大学に行かせてもらい、
俺は柔道を習わせてもらっただけ、
でも両親は知にはザべリオに行かせ、習字も習わせ、算盤も習わせ、琴も習わせてくれたんだから、両親は兄弟の中では私に一番お金をかけた、と言う事です。
(でも、東京の大学4年間X2人もお金かかりますよね)
そんな私の幼い頃の夢は、漠然とではありますが・・・
- お菓子屋さんになる事
- サラリーマンのお嫁さんになる事
- 床屋さんになる事
これら3つでした。
しかしながら1と2に関しては一過性のもので、
持続的に「なんとなくなれたらいいかな~」と抱いていた夢は3の床屋さんでしたね。
では何故床屋さんだったか。
実は私の散髪は幼い頃から床屋さんであり、床屋さんと言えば「顔剃り」があり、
いつもその顔剃りがとても気持ち良く、私も顔剃りの仕事をしたい、
という気持ちになっていたからなんですね。
この床屋さんの顔剃り、してもらった人なら分かると思いますが、
それは気持ちいいひと時なんです。少なくとも、私はそうでした。
こんな感じで私は「なんとなく」ではありますが、
小学校低学年生の頃から既に「将来は床屋さんになれたらいいな、」
という夢があった私は、ザべリオ学園小学校3年生の頃にはカミソリの代わりに三角定規、粉石鹼ブラシの代わりに消しゴムを持ち、
成績優秀な長男「あんちゃん」と、喧嘩が強く、親分肌だった二番目の兄「ひらあきちゃん」の2人の兄に顔剃りのモデルになってもらい、
「顔剃り練習」をしたりしていました。
私は男兄弟の中で育っているせいか、琴を習ったりザべリオ学園に行っていてもあまり女の子らしい遊びをせず、喧嘩の強い2番目の兄、ひらあきちゃんとおいちょかぶや木登りなどの遊びが多かった私の中では、どちたかと言えば唯一女の子っぽい遊びでした。そんな「床屋さん顔剃り練習」を父も母も快く見てくれていました。
そして6年生になった時には、
本物のカミソリであんちゃんの顔の髭を剃るに至ります。
もちろんこの時は「床屋さんになれたらいいな~」程度の気持ちであり、
本気で床屋さんになりたくてしていた訳ではありませんが、
あんちゃんが「やってみろ」と言ってくれたからトライした訳なんですが、
結果は大失敗でした。
そんなあんちゃんはその頃、会津高校3年生でしたが、実は父と揉めていました。
あんちゃんは会津高校で成績も優秀だったので大学へ進学したかったのですが、
父が「勉強では食えねえ」と言ってあんちゃんの大学進学を頑なに大反対していたからなのです。
当時うちは呉服屋で成功していたとは言え、
あんちゃんの3学年下のひらあきちゃんも翌年は高校生になりますし、
更に三学年下の私は私学のザべリオの中学部に上がりますし、
更に三学年下には弟のおこちゃんも控えてましたから、
やはり経済的に大変だという事もあったのだろうと思います。
結果的に母が父に頼み込み、兄は東京の大学へ行かせてもらえる事にはなりましたが、
この成績優秀のあんちゃんですら大学進学ををあれほど反対された光景は、
後に私のマインドに影響を与える事になりました。