一足先にザべリオの友達とお別れ
会津若松ザべリオ学園中学時代の私の心境
昭和32年4月、私はザべリオ学園の中学部に上がりました。
中学部に上がると、小学校からの会津若松市内の友達に加え、
喜多方などからも中学受験で何人かの新しい生徒がクラスメイトとして入ってきました。
皆いい子達でしたが、どちらかと言えば喜多方の子達は喜多方の子達同士で行動していました。
或る時私は教室のストーブで手の平を酷く火傷したんですが、
それを見た鈴川さん(仮名)が翌日、私の為に軟膏を持ってきてくれた事がありました。
その軟膏がとてもよく効きました。
鈴川さんのお父さんは喜多方で開業医をしているとの事でした。
私は新しい喜多方からの仲間も含め、概ねクラスメイト皆と仲良くやれていました。
そして、中学3年にもなると、クラスの友達は皆ザべリオ学園高校部に上がった後はどこの大学を目指すかなどの話題が出始めていました。
或るクラスメイトは「私はお茶の水女子大に行く」などという感じで具体的に志望大学名まで挙がっていました。
ところが私は、3年前会津高校3年生だった成績優秀のあんちゃんが、
父から大学進学をあれほど大反対されていた光景を見ていた為、
この頃にはもう”私は大学進学は無理だろう”と思いました。
なので私は家の事情からザべリオの高等部に進む意味もあまりないな、
と感じてもいました。クラスの皆が高等部へ行き、
そして東京の大学を目指す事を目標にしている中、
なんとなく私だけ皆とは異なる方向へ行かなければならない事はやはりちょっぴり寂しい気持ちにはなってはいましたが、父の考えが「勉強では食えねえだ」というものである限り、大学は無理でしょう。
とは言え、気持ちの切り替えが早い私は、
そんな事でいちいち落ち込んでいた訳でもありません。
それならそれで幼い頃からの夢の一つでもあった「床屋さん」の道に進めばいい、
と、気持ちを切り替えていたからです。
まあ、大学に行かせてもらえる空気が無いから高校にも行く必要性を感じなかったと言えばかっこいいですが、
実際には高校すら行かせてもらえるかどうか微妙な空気に包まれていたから、
私は高校進学はやめ、床屋さんの道にでも進むか、と思い始めていたというのが本当のところです。
しかし、学費面から大学進学は厳しいとしても高校は・・・
ところがこの頃には高校進学もさせてもらえるかどうか微妙な空気になっていたのです。
兄の大学資金が元で家庭内不和へ
何故なら、長兄のあんちゃんを東京の大学に行かせる事になってから、
呉服店だけでは大学資金が経済的に厳しい為、
父が水商売のプロの女性を雇い、会津若松市の末広町に飲み屋を出したのですが、
それが元で母と父が毎日取っ組み合いの夫婦喧嘩になり、
結局、半年で末広町の店は畳むことになるという、
兄の大学資金が元でこの様な家庭内不和が起きていたからなのです。
そして、父は家に戻らず、その女性の家に帰るという事態にまで父と母の夫婦仲は悪化してしまっていたのです。
そして、こんな家庭内不和の中、父もストレスだったのでしょう。
当時若松商1年で、成績はいいけれど、言わば学校で番長的存在だった、というか番長だった二番目の兄ひらあきちゃんへの父からの風当たりも強くなり、
ひらあきちゃんは父から「この伊藤家で不良が1人でも出たら、それには二度と伊藤家の敷居は跨がせねえ!」等と言われたりなど、成績が良くても父からは冷遇されていると思ったのか、長兄の大学の学費で家計に苦労し父と母も毎日喧嘩、
自分は成績がよくてもそんな風に言われる・・・そんな状況で空気を読んだ2番目の兄のひらあきちゃんは私にこう言いました。
「兄貴は大学へ行かせてもらい、知はザべリオに行かせてもらい、おこちゃんは体が弱いから甘やかされ・・・俺は真ん中でどうでもいいんだ。要は親父もお袋も俺なんかどうでもいいんだ」と言い、
もうこの家を出て東京に行って稼ぐほうがいいと感じ、
自分が高校も辞めれば学費もかからなくなるからと、
さっさと若松商を中退して東京に出て行ってしまいました。
このひらあきちゃんの考え方や行動パターンは、
実は父の遺伝だろうと思います。
父は柳津の新聞屋の4人兄弟の次男でしたが、自分の居場所が無いと感じ、
さっさと丁稚奉公に出て呉服販売で成功した男だったのです。
さて、こんな状況の中、女の私がそのまま私学の高等部へ進学するとか、
当時の我が家の雰囲気ではちょっと言いだし辛い・・・という空気でした。
しかも2番目の兄は、こういう家庭内事情の空気を読んで若松商を中退して東京に出て行っている。
そして、私の下の弟「おこちゃん」も翌年から中学に上がりますから、
我が家は資金繰りで更に家庭内の揉め事が勃発するのは中学生の私でも想像がつきました。
という事で、私は大学どころか高等部への進学も諦めようか、これはしょうがないな、
と、ある程度はあきらめがついていた訳です。
そして私は1960年(昭和35年)、ザべリオ学園中学校を卒業と同時に、
仲が良かったクラスメイトより一足先に幼稚園、小学校、中学校と一貫して在学していたザべリオ学園とお別れするに至ります。
クラスメイトの多くはザべリオ学園高等部へ進んだんじゃないでしょうか。
中には会女(かいじょ)などに進学した友達もいるとは思いますが、
とりあえず、幼稚園→小学校→中学校と在籍していながら高校へ行かなかったのは多分私ぐらいだと思います。
さてまあ、ここまではね、東京の大学に行ってる長兄の学費とか、
私学に行かせてもらってた私の学費とか、
これから学費が必要となる弟の事とかもあるし、
そんな状況の中、2番目の兄は働くために高校を中退して東京に出て行ったし、
こんな状況では私も更なる進学は難しいな、という事で、
ザべリオ中等部を出た後は私も2番目の兄の様に働こう、と割とすんなり思うに至り、
じゃあ、幼い頃からの夢みたいなものだった「床屋さん」の道に進もうか、
と思ったのは割と自然な流れでしたね。
私は気持ちの切り替えもすんなり出来ていて、
そして、それに関しては父も母も肯定的でした。
ところがところが・・・