土壇場の梯子外し、1年間路頭に迷う
「床屋駄目。パーマ屋ならいい」
ところが、私がザべリオ学園中学を卒業した或る日、
東京の大学に行っていた長兄「あんちゃん」が会津若松の実家に一時帰省したんです。
そしてそのあんちゃんが父母、そして私の前で突然こう言うんです。
「知、床屋は駄目だ」と。
もちろん私はあんちゃんに聞きました。何故突然そんな事を言うのかと。
すると、あんちゃんはこう言いました。
「床屋はお客さんが全部男だから駄目だ」と。
これ、私が想像していなかった理由でした。
これを聞いた父と母はダンマリ。
否定も肯定もせず何も言いません。
私はここで初めて困りました。
ザべリオの高等部にも進学しないと決まった上に、
その代替案として浮上していた床屋の道にも進めない・・・
私は当然あんちゃんに問いました。じゃあなんならいいのか、と。
するとあんちゃんの答えは、パーマ屋ならいい、という事でした。
理由は床屋の逆ですね。
あんちゃん曰く、お客さんが女性ばかりだから、という。
それを聞いた父と母も突然「それがいいべした・・・」
なんて言い始める始末。
私としては、これは梯子を外された感じですね。
何故なら父と母は、私が中学三年の頃、
後の進路として理容師になる事を肯定していたんですから。
しかし、代わりに美容師・・・私には全然よくない話しです。
何故なら、本当はザべリオの友達と同じように私も高校、大学と進みたかったのが本音でしたが、家庭の経済的事情や父の考え方から、とてもその進路は無理だな、
と潔く諦め、とりあえず幼い頃からのちょっとした夢だった床屋さんになり「顔剃り業務」を行なおう!という代替案で妥協していたところ、
床屋は駄目でパーマ屋さん、つまり美容師になれ、という事では、
私のしたかった「顔剃り業務」は無いんですから・・・
私は「顔剃り」が好きで床屋の道に進もう、と思っていたんですから。
これは例えて言うなら、
カレーライスを注文しているお客さんに対し、
「カレーライスは駄目です。ハヤシライスを注文して下さい」と言ってる様なもんではないかと・・・
もちろんこのあんちゃんの反対は、
あんちゃんが私の事を心配してくれて理容師の道に進む事を反対したのだという事はよく理解出来ます。
そして、理容師の代替案が美容師という事だったんでしょう。
確かに理容師でなくても美容師でも同等にお金は稼げるとは思います。
でも、私は貧しいところから商売で成功し呉服屋を開業した父や母とは異なり、
幼い頃から呉服屋の娘として琴を習わせてもらったり、
私学のザべリオ学園に行かせてもらったりとぬくぬくと育ったため、
この頃はまだお金儲けよりはまずは自分の夢を叶えたかったんです。
そうなんです、お金が稼げるならなんでもいい、という状況にはなかったんです。
しかも、私の本当の夢はザべリオの高等部へ進み、大学進学でしたから、
高等部には進まず、床屋の道に進むという事ですら本来の第一希望ではなく、
妥協案だったのですから。
その妥協案だった第二希望も駄目だとなると、
私は困りましたね。ザべリオ学園中等部を卒業し、
一足先にザべリオのクラスメイト達とお別れはしたものの、どうするべきかと。
実はあんちゃんは、東京の大学に行く前、会津高校生だった頃は、
私の床屋さんごっこにとても協力的で肯定的だった上、
先にも言いましたが父と母に至っては、私がザべリオ学園の中等部3年生の終わりごろ、床屋になろうかと話した時、とても肯定的だったのですから!
そんな経緯で、突然の「駄目」でしたから、
私は土壇場で梯子を外された感がありました。
私はやりたい事を失い、ザべリオ学園中等部卒業後、
一年間路頭に迷う事になりました。
私は父に相談し、学習塾にも通わせてもらいました。
翌年高校を受験しようと思ったからです。
何故なら、中等部卒業後の床屋への進路は私の意思で取りやめになった訳ではなく、
他にやる事が無くなったからです。私としても、もう開き直りですね。
父が「高校に行かすお金は無い」と言えばあきらめればいいだけでした。
ところが父は、あの土壇場での梯子外しを「悪い」と思っていたのか、
学習塾には行かせてくれました。
しかし、或る時、父にこう言われました。
「知、勉強では食えね~だ・・・」
この時私はまだ高校に行かせてくれるものだと思っていましたが、
甘かった・・・
そして、ついに・・・
ザべリオを卒業し、一年が来ようとする昭和36年(1961年)の3月、
突然父から、勉強では食べていけないから美容学校に行くように、
と言われました。
あれ、高校は?・・・塾にも行かせてくれていたのにどういう事?
私は、口には出しませんでしたが、正直なところ、えーーーっと思いましたね。
しかも、床屋(理容師)の道ならまだしも、美容師の道・・・
心の中で「美容学校?・・・・・やんだ~~~・・・」と嘆きましたね。
でも、父は密かに、用意周到に計画していたのだと思います。
高校になんか行かず稼げ、という頑固な父の考えそのものです。
私は、もう、「うん・・・」としか言えませんでした。
そして、1か月後の4月のある朝、突然父に「いくぞ」と言われ、
私は気乗りしないまま、心の中では不貞腐れ気味でしたが、
有無を言わさず父の自転車の後部座席に乗せられました。
自転車は神明通りを抜けて、会津若松駅方面へ向かいました。