父に連れて行かれた美容専門学校
昭和30年代で既にレトロだった校舎
1961年(昭和36年)4月のある朝、父にたった一言「行くぞ」とだけ言われ、
父の自転車の後部座席に乗せられ着いた先は会津若松駅近くの会津高等理容美容専門学校でした。上のモノクロ写真の家屋が私が入学した昭和36年当時の会津高等理容美容専門学校の校舎です。
この伊藤知子の「昭和ノスタルジー・美容師への道」ブログではモノクロの昭和レトロ写真を掲載している訳ですが、
この建物はこの1961年当時で既に昭和レトロ感が出ていました。
いや、当時の私はレトロ感という印象より、
ただでさえ美容師になどなりたくもないのに専門学校に連れて来られている上に、
それまで学校と言えば会津若松ザべリオ学園の綺麗な校舎しか知らなかった私からすれば、この駅前の専門学校はレトロじゃなくてオンボロ校舎にしか見えませんでした。
屋根なんか大雪が降ったら歪みそうな雰囲気。
美容師になどなりたくなく、不貞腐れ気味だった当時の私には実際以上にオンボロ学校に見えましたね。
先述した様に当時私は父に連れて来られ、美容師の道に進むという事を全く乗り気ではないまま、仕方なく教室に入りました。
そこに集う先生方も生徒達も皆素晴らしい表情をしていた
そして私はそこに集う生徒達の顔を一人ずつ見ていきました。
すると、レトロというかオンボロ外観の校舎のイメージとはかなり異なり、
生徒達は皆小奇麗でやる気に満ちた目をした賢そうな人々ばかりでした。
そこには私の様に嫌々来ている様な表情の生徒は一人もいなかったのです。
そして、先生方も皆やる気に満ちており、
見た目もそこそこイケメンのいい男ばかりでした。
急にやる気になった負けず嫌いの私
私は急に気が変わり、やる気になりました。
別に先生方がイケメンだったからではありませんよ?
上にも記しましたが、そこに集う生徒達が皆やる気に満ちていたからなんです。
嫌々来ていたのは私だけで、この時思ったんです。
「この人々に負ける訳にはいかない」と。
負けず嫌いの父と母に似た私が一瞬でその気になる程、
ここに集まっていた生徒達は皆やる気に満ちた素晴らしい表情をしていたのです。
田島町から来ていた「かっちゃん」
そんな中、私、伊藤知子はこの会津高等理容美容専門学校で1961年(昭和36年)春から1962年(昭和37年)の春までの1年間、美容師になる為に実技と学科を勉強していく訳ですが、友達も沢山出来ました。上記モノクロポートレート写真の右側の子、
南会津郡田島町から美容学校に来ていた鳴沢勝美ちゃん(仮名)、
通称「かっちゃん」もその中の一人。
かっちゃんは確か私より1つ下。そして私には一度もノーと言った事が無い程、
私と仲が良く、会津若松の専門学校時代、当時私の文通相相手だった新潟新津の男性のところへも一緒に遊びに行ってくれたり、本当によく一緒に行動してくれていました。
そしてかっちゃんは、卒業時にインターンも私と同じ東京葛飾の美容院を希望してくれる事になります。そしてその事は、後に私にとっては救いとなります。
会津本郷町から来ていた「かねちゃん」
そして美容学校では、後の私の東京での美容師生活でアパートのルームシェアをしてくれる事になる会津本郷町から来ていた石本金美ちゃん(仮名)、通称「かねちゃん」とも知り合い、かっちゃん同様にとても仲良くなった友達の一人です。
(※何故かっちゃんと東京でルームシェア出来なかったのかというと、
実はかっちゃんと住み込みで務めていた東京月島の美容室を私はとある事情で辞める事になるのですが、
その時、私の都合でかっちゃんまでその美容室を辞めさせる訳にはいかなかったからなのです。
だから私はその月島の美容室を辞めた後、アパートを借りる必要がありましたが、
かっちゃんは月島の美容室[住み込み]に残してきたので、ルームシェアは不可能だったのです。決して仲が悪くなったから道が分かれた、という訳ではありませんでした)
尚、当時かねちゃんのお誘いで会津本郷町の自宅へ遊びに行った時、
かねちゃんのところで栽培しているモヤシを手土産に貰った覚えがあります。
それはとても大きいモヤシで、とても美味しかった記憶があります。
かねちゃんのところは、ご両親が本郷焼きをしており、
かねちゃんのお兄さんがモヤシの栽培をしているという事でしたね。
とにかく、かねちゃんは後に私が東京でアパートを借りる時、
本陣は会津若松の美容院で仕事をしていたにも関わらず、
私の提案に応じてくれ、会津から東京に出て来てルームシェアに応じてくれます。
また、専門学校では宮城県の松島や鹽竈神社などへ旅行に行きました。
しかしながら、集合写真に田島のかっちゃんや会津本郷のかねちゃんが写ってないところを見ると、この旅行は自由参加だった様です。
上の塩釜神社前のモノクロ集合写真では、前列向かって左から2番目が当時の私です。
そしてこの旅行で私は、後に文通をする事になる新潟の新津市から来ていた当時20歳の学生、尾曽川昭雄さん(仮名)と知り合います。
文通は 今ならメールやチャット、Skypeなどといったところでしょうか。
「下」モノクロポートレート写真、美容専門学校の旅行の道中、平駅前緑の影というモニュメント像の前で仲良し仲間の一人、六藤世利子さん(仮名)と!
【下】モノクロ3人組ポートレート写真、左から二枝さん(仮名)、六藤世利子さん(仮名)、私「伊藤知子」、宮城県塩竈市「鹽竈神社」にて
この美容専門学校では、かっちゃん、かねちゃん、二枝さん、砂本さん、六藤さん、右藤さん、加田さん、清川さん(総て仮名)その他、素晴らしい仲間達と仲良くなれました。
そして1962年(昭和37年)、会津高等理容美容専門学校卒業の春がやってきます。