昭和37年、専門学校卒業「4年で1人前になれ」
1962年(昭和37年)春、1年間学んだ会津高等理容美容専門学校卒業の時が来ます。
(現:会津美容高等専修学校「AIZUビューティーカレッジ」)
いよいよ、次のステップは美容師試験を受ける資格を得る為に、
1年間の美容師インターンを行わなければなりません。
※卒業間際の春[左から砂本さん/私/右藤さん/加田さん/清川さん/二枝さん(総て仮名)]
今は美容師試験を受ける資格を得る為野インターン制度が無くなった代わりに専門学校は2年らしいですが、私の時代、1960年代初期は専門学校は1年、
その後実際に美容室でインターン1年というシステムでした。
この時代、美容専門学校1年間で学ぶ事は、学科が消毒学など13学科、
実技はざっくりいうとパーマのロット巻きとウェーブの2種類で、
それも、週の大半が学科であり、実技は週二回ほどでした。
要は私が美容師を目指した60年代初期は、実技はインターン1年間の実務経験で身に着けるシステムだったという事です。
なので、美容師の実務経験を積むインターン先は重要となる訳です。
父の言葉「人が10年かかるところを、4年で1人前になれ」
さて、昭和36年の春、私伊藤知子は父に連れて来られたカタチで不貞腐れ気味に美容学校に入った訳ですが、前の記事に記した通り、先生方も学生達も皆素晴らしい表情をしていた為、私もやる気を出して頑張った事もあり、学科は総てほぼ満点状態でした。
実技のうち、ロット巻きだけは好きにはなれず嫌いでしたが、
それでもとりあえずはクリア出来ました。
そんな私に父が言った言葉は
「知、人が10年かかるとろを、知は4年で1人前になれ」でした。
そして更に、美容師のインターンは東京で行え、という事でした。
私は東京には特に興味はありませんでしたが、
父には考えがあるのだろうと思い、それに従う事にしました。
上のセピアがかった白黒写真が昭和37年度卒業生の集合写真です。
「会津高等理容美容専門学校、第三回卒業」となってますから、
この頃学校は開校してまだそんなに間が無かった、という事になるんでしょうかね。
尚この年、県外へのインターンを希望していたのは私だけでした。
既に述べましたが、私は父から「東京でインターンをするように」と言われていたので、先生に東京で住み込み可能なインターン先を探してもらいました。
しかし、今のインターネットで情報が共有化されたオンライン情報化社会とは異なり、
当時は福島県から東京都内の美容室のインターン先、しかも住み込みという条件で探すのは難しかった様で、放課後、教室で待っていた私の元へ先生が持ってきた東京のインターン先候補は1件だけでした。
「伊藤さん、東京は1件しか無い・・・」
放課後の教室で待っていた私に、先生は苦しそうな表情でそう言いました。
私としては父に「東京でインターンしなさい」と言われていたので、
その1件しか無いなら、もうそこに決めるしかありません。
私は先生に「じゃあそこにします」と答えました。
すると次の瞬間、後方から声が聞こえました。
「私も東京行くッ!」
その声の主は、田島町から来ていた仲良しの一人、「かっちゃんの声」でした。
かっちゃんはそう言って私の元へ駆け寄って来ました。
こうやって田島から来ていた仲良しのかっちゃんも、
私と同じ東京葛飾の京成堀切菖蒲園駅から徒歩数分の場所にある「フラッシュ美容院(仮称)」へインターンに行く事になりました。
この為、私とかっちゃんは東京葛飾の美容院への面接の日程の関係から、
卒業写真撮影当日の雛段には参加出来ず、
写真右上の長方形枠に顔写真が組み込まれるカタチとなりました。
長方形枠向かって右端が私「伊藤知子」、
その左隣が仲良しの一人、田島町出身の「かっちゃん」です。
尚、卒業写真の欠席者枠でかっちゃんの左隣には会津本郷町から来ていた仲良しの「かねちゃん」も組み込まれていますが、かねちゃんも撮影当日何等かの事情があったのか、撮影現場に居合わせていなかったという事になりますね。
当時は理由を知ってたのかも知れませんが、今はもう思い出せないというか・・・
昭和37年春、この様な経緯で私とかっちゃんは磐越西線会津若松駅から郡山駅行きの列車に乗り、郡山駅から東北本線で東京上野駅まで出て、そこから京成電鉄に乗り換え、堀切菖蒲園駅で降り、フラッシュ美容院へ面接に向かう事になりました。
ところが、そこで私とかっちゃんを待っていたのは、
栄養失調とストレス、極貧の3拍子揃ったインターン生活でした。