美容師伊藤知子[昭和30年代モノクロ写真]

1960年代、東京の美容師達の青春

昭和37年、痛恨の葛飾インターン時代

昭和37年インターン[葛飾区]京成堀切菖蒲園[フラッシュ美容院]

昭和37年(1962年)春、私とかっちゃんの二人は葛飾区の京成電鉄堀切菖蒲園駅から徒歩7分ほのにあったフラッシュ美容院(仮称)で1年間住み込みでインターンを行いました。

[昭和30年代]1960年代の美容師

[1962年]京成堀切菖蒲園駅から7分のフラッシュ美容院(仮称)前での私とかっちゃん

 上のモノクロポートレート写真は、一体誰が撮影してくれた1枚なのか全然記憶に無いのですが、葛飾区のフラッシュ美容院(以後「堀切菖蒲園」で統一します)の前で撮影していますので、年代的には昭和37年(1962年)に撮影されたポートレートという事になります。当時私が17歳、かっちゃんは私より1つ下だからこの時「多分」16歳。

この昭和初期を感じさせるレトロというか古い昔の白黒写真からは、

お店の前のコンクリートの割れ目から覗く土の湿り具合(水を打ったのかも知れませんが)や、全体的な光量、二人の軽装といい、なんとなく空気感に「湿度」も感じますので、梅雨時期の6月ぐらいの撮影かな?という気もします。

因みに二人が着用している美容師の白衣はこの堀切菖蒲園の美容室で支給・貸与された制服ではなく、確か会津若松の専門学校の実習時の白衣だったと思います。

2人とも、その白衣持って来たんですね。

このインターン先の美容院、美容院というより「鍼灸院」という雰囲気しませんか?

2人の白衣とその建物の雰囲気からしてそんな雰囲気。

辛うじて右側にパーマ屋さんと分かるショーケースがあるからいいものの、

かっちゃんの左肩(向かって右側の肩)の少し上にある、

ガラスに「美容院」と書かれている末尾の「院」の文字しか見えない場合、

白衣の二人は美容院の従業員というより鍼灸院のスタッフに見えます。

昭和初期の美容室

ショーケース拡大

それにしてもショーケース下段に陳列されている2本のガスボンベは何なんでしょうか。

まあ、美容院なので、考えられる商品としては、セット用のヘアスプレーではないでしょうか。カセットコンロのガスボンベとか殺虫剤のボンベスプレーでは無いと思います。

 個人的には右側の△マーク付きのボンベが何なのか、気になります。

 しかし、それより・・・ボンベの左側にある謎のアイテムのほうが気になりますね。

1960年代初期の美容室でああいうアイテム使ってたんでしょうか?

私は当時の東京の美容師インターン生ですが全然記憶にありません。

尚、ここの立地は木造の低層住宅街という雰囲気でしたが、

前面道路も割と広く、幅員は5メートル前後はあったと思います。

窓に映る風景

店舗のウインドウに映る向かいの家屋

 店舗の窓には前面道路を挟んだ向かいの建物の様子が映り込んでいます。

 この写真はそんなところですね。

しかし、この堀切菖蒲園のフラッシュ美容院は、

私とかっちゃんにとってはストレスの住み込みインターン1年間となりました。

業務的なストレス?いえ、全然違います。

仕事なんて殆んどありませんでした。

お客様なんて週に3人来ればいいほうでしたから。

ストレスは業務とは全く無関係な事でした。

 そしてそのストレスだけならまだしも、栄養失調と赤貧というオマケ付きでした。

食事は3食ところてんと白米、給料は月1,500円、そして嫌がらせ

ここの三度の食事のメインディッシュは「毎日ところてん」なのです。

毎日ところてんと山盛り2杯の白米、そしてモヤシしか入っていない味噌汁。

 私とかっちゃんは白米をお茶碗に押さえつけて山盛り2杯食べていましたが、

それでも食べた直後からお腹が空きまくりでした。

毎日ところてんと白米では栄養が偏っているからだと思います。

でもここでは美容師の先生もその旦那も毎日同じ食事内容なので、私達だけがそういう炭水化物過多の偏ったメニューだった訳ではなかったので、仕方ありません。

ただ、毎日そのメニューですから、

私もかっちゃんも美容師の先生も、炭水化物過多で浮腫んでいました。

先生の旦那は小学校の教師だったので、昼間は勤務先の小学校で給食か何かところてん以外の物を食べていたんだろうと思います。

 

そして、私とかっちゃんの給料は月1,500円という安さでした。

ヤマザキのうぐいすパンが1個10円の時代でしたから、

今の価値だと1,500円というのは、大体15,000円といったところです。

これは後に私とかっちゃんが月島2丁目の蒼ゆり美容室へ面接に行った際、

そこの経営者である奥さんに教えてもらって判明した事なんですが、

当時東京都の美容師組合の規定では、月島2丁目の奥さん曰く、

インターンには月5,000円支払う規定だという事でした。

つまり、私とかっちゃんが無知だからという事で、

堀切菖蒲園のフラッシュ美容院の先生は、インターン生への給与規定を大幅に下回る違反内容で1年間二人を使用していたという事になります。

規定が5,000円なのに1,500円という事は、

私とかっちゃんの二人分を合わせても既定の1人分にすら全く及ばないと言う・・・

でも、ここ堀切菖蒲園のフラッシュ美容院で住み込みインターンをしている時の私達二人は、そんな事まったく知りませんでした。無知は大損です。

そりゃ赤貧に陥りますね。

渋谷のクリーニング店で務めていた2番目の兄が様子を見に来る

 そんな赤貧インターン中の或る日、

渋谷のクリーニング会社で仕事をしていた2番目の兄「ひらあきちゃん」が、

当時同棲中の彼女英美さんと共にクラウンに乗って堀切菖蒲園のフラッシュ美容院へ私の様子を見に来ました。ひらあきちゃんは開口一番、

「おお、頑張ってるか、知、浮腫んだな」と言いました。

昭和30年代「トヨタクラウン」

同棲していた彼女と二人で渋谷から様子を見に来てくれた2番目の兄

そして、給料1,500円しか貰っていない私の現状を知ったひらあきちゃんは、

そんな妹の私をを哀れに思い、1,000円のお小遣いをくれました。

これは本当に助かりましたね。

また、この堀切菖蒲園の美容院は、従業員はインターン生である私とかっちゃんの2人だけだったんですが、

私はここの旦那(小学校教師)に背後から抱きつかれそうになり、阻止すべく反撃して肘鉄をかまして以降、その旦那に幼稚な嫌がらせばかりをされるようになり、

私は深夜の尿意に見舞われても、私とかっちゃんの寝室である2階から先生とその旦那が寝ている一階の寝室(居間)を通ってのトイレに行き辛くなってしまい、

本当に困りました。

その旦那は、私が深夜に寝室を覗き見に来てると言い始めたのです。

手書き間取り図

間取り図

かっちゃんはかっちゃんで、先生の旦那である小学校教師に、やれ靴下を履かせろ、ネクタイを外せ、靴下を脱がせろなどと毎日「小間使い」の如く使われ、そして、それだけではなく、かっちゃんはかっちゃん自身のちょっとまずい記載内容の日記を美容師の先生に盗み読みされてしまい、かっちゃんはそれ以降美容師の先生に冷遇されてしまいます。

1日でも早く美容師試験を受けて、早くここを辞めたい!

そして、私もかっちゃんもこれ以上は限界となり、インターン期間の規定を満たしたら即ここを辞めよう、という事に決めるに至りました。

そして、インターン規定日数通過後、一日でも早く美容師試験を受けて、

1日でも早くここ堀切菖蒲園のフラッシュ美容院を辞める為に、

美容師試験の実施日が少しでも早い都道府県を調べました。

その当時は東京都より茨城県のほうが試験日が早かった!

すると、当時は東京都より茨城県のほうが、

美容師試験の実施日が早かったのです!

私とかっちゃんは迷いませんでした。

2人は東京でインターンをしている訳ですが、

東京都より美容師試験実施日が早い茨城で試験を受ける事に決めたのです。

 

 こういう経緯から、当時私は東京でインターンをしていたにもかかわらず、

私の美容師免許証は「茨城県知事交付」な訳なのです。

 

もちろん、当日私と一緒に試験会場の茨城大学に美容師免許試験を受けに行ったかっちゃんの美容師免許証もこの茨城県知事交付版だと思います。

ただ、東京都より茨城県の方が美容師免許試験の実施日が早いと言っても、

そんなに何か月も早かったという記憶はありません。

たかだか1~2週間程度の違いだったと思います。

しかし、二人は東京での試験日がたったそれだけ遅いだけですらもう我慢出来ず、

茨城へ走った訳です。

2人はもうどれほど堀切菖蒲園のフラッシュ美容院での生活が嫌だったか、

という事ですね。

当時の私とかっちゃんは、「一日でも早く美容師免許を受けてここを出て、他所へ行こう!」という精神状態でした。

試験受けた後どうするか?・・・二人共全然考えてなかったですね。

その証拠に、試験当日に二人で「辞めさせて欲しい」と切り出し、

その後どうするかとか全然考えてなく、まずは辞める事、が最優先でしたから。

私もかっちゃんんも、次行くとこ決めてからとか、今夜の寝場所を決めてからなんて、

そんな用意周到な事するタイプじゃなく、

まずは試験日にここを辞める事、それが最優先でした。それほどフラッシュ美容院での住み込みインターンが限界だったんですね。

予想通り先生の旦那である小学校教師に「辞めささない!」と反撃されましたけど、

美容師である先生の方は「とうとうきたか・・・仕方がない」という顔してましたね。

私にはそう映りました。

自分達がインターン2人に対して無茶してるという認識はあったのかも知れません。

先生は終始無言でしたね。

先生は癇癪持ちでかっちゃんの日記を盗み読みし、かっちゃんに辛く当たったり、

私達の給料を大幅に誤魔化したりという面もありましたが、

先生は自分の娘のクラス担任だった13歳年下の小学校教師と鹿児島から駆け落ちして上京して来たぐらいの人ですから、苦労も味わってるだろうけど本来根は明るく気さくな人だと思います。

というのも、先生は自分の娘さん達4人を鹿児島に置いて東京に出て来たのですが、昭和37年の夏に一度だけその娘さん達が東京に遊びに来た事があるのです。

そしてその娘さん達は皆明るくて性格が良かったのです。

当時人見知り傾向だった私ですら、彼女らとはすぐに打ち解けたぐらいですから。

先生も本来はそうオープンで明るい性格だと思いますね。

私は彼女らの事はすぐ好きになりましたね。いまどうしてるのかは分かりませんけど。

1962年(昭和37年)夏、都内の食堂

借りて来た猫の様に端に立つ私達2人「1962年(昭和37年)夏、都内の食堂で」

でも、そんな本来は明るい性格だった可能性のある先生も。東京で毎日白米大盛り2杯とところてんという炭水化物に偏った食事の害が出て鏡里関かガマガエルの様な姿に変わり果てた48歳、旦那はロバの様な顔とは言え35歳の若さで、学校ではなんと模範教師と言われて生徒の母親からも人気あり。これでは憂鬱にもなるでしょう。

先生のあの姿は間違いなく炭水化物に偏った食事のせいでしょう。

私とかっちゃんもあ毎日のあの食事ですぐに浮腫み始めましたから。

昭和30年代後半、食事風景

1962年(昭和37年)夏、先生の娘さん達が遊びに来た日、特別に素麺の御馳走!

先生は夢を抱いて駆け落ちして東京に出て来たにもかかわらず、寂しい毎日でストレスと欲求不満からああいう癇癪持ちになり果てたのかも知れません。

そう、この13歳年下の小学校教師というのが先生の旦那です。背後から私に抱き着こうとした・・・その旦那が私とかっちゃんが辞める事を頑なに拒否しました。

 でも私とかっちゃんは諦めませんでした。茨城での試験に遅れてしまいますから。

最後は「辞めさせてくれないなら警察に行く」と言うと、先生の旦那は諦めましたね。

 

事前通達もなく、当日いきなり辞めるのもどうかと言われるかも知れませんが、

まだまだ子供で世間知らずの私達だったからこれで済んだものの、

私とかっちゃんからすれば、美容室には週に3人しかお客様も来ず、

技術者は私達が来る前の先生一人状態でも十分過ぎるし、

困る事と言えば毎日の掃除と洗濯、ところてんと味噌汁の準備、

そして先生の旦那の靴下を脱がせたり、履かせたり、ネクタイを外さされたり、

そして、先生の旦那の今でいうセクハラ行為や、

それを拒否した事によるその後の嫌がらせ行為や、先生の毎日のストレスのぶつけ先が急になくなる、というだけの事だから、そんな都合にこれ以上1日たりとも合わせる必要がある?しかも、このすぐ後の面接で分かる事だけど、

私達インターンへの給与も東京の美容組合の規定より遥かに違反して安かった。

 私は個人的には美容師の先生はいいところもあったから嫌いじゃなかったけど、

私もかっちゃんももう限界だったからね。

だから1日でも試験の早い茨城迄出向く訳だから。

 でも、何度もいうけど、あの娘さん達はとてもいい性格をしていたのが印象的でした。

 

私とかっちゃんは、笑顔で京成堀切菖蒲園駅まで走り、試験会場の茨城大学へ行き、

試験を受け、夕方前には東京に戻り、新聞の求人欄で都内の住み込み美容師募集の美容室を探しました。

そして中央区月島2丁目の「蒼ゆり美容室」の即日面接が決まり、

2人は月島2丁目へ急行しました。