美容師伊藤知子[昭和30年代モノクロ写真]

1960年代、東京の美容師達の青春

昭和38年[月島2丁目]蒼ゆり美容室(仮称)

 ↓中央区月島二丁目の蒼ゆり美容室の先輩、絵里子さんと行った1963年当時の東京皇居外苑和田蔵噴水公園の、今とは周囲のビル群の雰囲気が異なる昭和レトロな風景写真

昔の写真「皇居外苑和田倉噴水公園」

1963年9月、皇居外苑和田倉噴水公園

1963年(昭和38年)春、私とかっちゃんは痛恨の住み込みインターンで1年間耐えた堀切菖蒲園のフラッシュ美容院から脱出したその足で即、

茨城迄出向き美容師試験を済ませ東京にとんぼ返りし、

面接をとりつけた中央区月島2丁目の「蒼ゆり美容室」の門を叩きました。


昭和38年[中央区月島2丁目]蒼ゆり美容室(仮称)

 面接は40代後半の江戸っ子風の奥さん(美容師ではないが経営者)が行い、

私とかっちゃんの二人は即採用され、その日から2階に住み込みとなりました。

昭和レトロホテル写真「伊豆銀水荘」

昭和38年9月、蒼ゆり美容室の社員旅行「伊豆銀水荘ホテル」

 月島2丁目の蒼ゆり美容室は先輩技術者が5人いて、通勤は一人だけで、

あとの4人は全員住み込みの美容師。

面接時の奥さん曰く、毎日50人のお客様をこなしているという事でした。

美容師7名、一日70人のお客様をこなす月島!

そして、これからは私とかっちゃんも含めて技術者7名となるので、

毎日70人のお客様をこなしてもらわないと、皆に給料は払えないからね、

と言われました。

私とかっちゃんからすれば、1日70人のお客様をこなすというだけで、

もう「凄いな・・・」という驚きしかありませんでした。

何故なら昨日迄インターンしていた葛飾堀切菖蒲園のフラッシュ美容院は、

お客様は週に3人だったので、ここ月島の1日のお客様数は堀切菖蒲園のフラッシュ美容院の1か月のお客様数より断然多いのですから・・・

 そして、私達の給料もいきなり15,000円です。

昨日迄行ってたフラッシュ美容院は1,500円でしたから、給与は一気に10倍です。

もちろん、フラッシュ美容院が本来規定ではインターンへは5,000円支払わなければいけないところを違反して1,500円しか支払っていなかったからこそ10倍な訳ですが。この事実はこの月島の奥さんにこの時初めて教えてもらった事です。

 月島の食事は毎日奥さんの豪勢な手作り。買い出しは築地市場で。

 そしてここ月島の美容室は、お客様の数だけではなく、

毎日の食事も堀切菖蒲園のフラッシュ美容院とは全く別物でした。

もちろんここ月島は「儲けている」というのもありますが、

奥さんの料理に関する器用さがずば抜けていました。

食材はいつもローテーションで美容師1名を同行させ、徒歩数分の築地市場仕入れ、

その食材で奥さんが毎日9人分(美容師7名と奥さん、そして浅草で白猫というスナックを経営しているご主人さんの全9名分)の朝昼晩の3食を作るのですが、

とんかつ定食、八宝菜、親子どんぶり、あんかけ硬揚げそば、スパゲッティー

すき焼き、焼き魚、日本そば、野菜サラダ、野菜炒め、肉じゃが、ハヤシライス、オムレツ、酢豚、カレーライス、焼き飯、唐揚げ、豚生姜焼き、鍋物など、和食、中華、洋食問わず、おおよそその時代に存在した料理なら殆んど作って出してくれました。

 もう、インターン時代、白米とところてんの毎日のせいで炭水化物過多になり浮腫んでいたかっちゃんと私も、月島の毎日の食事でどんどん浮腫みが消えていきました。

堀切菖蒲園のフラッシュ美容院でインターンしていた時、先生の旦那は毎日ところてんと白米の食べ過ぎでどんどん浮腫んでいく私とかっちゃんを見て、

「見て見ろ!うちは栄養がいいから二人共どんどん太り始めた!」とか自信満々に言い放ってましたが、それ本当でしょうかねえ・・・

毎日白米とところてんと、後はモヤシしか入っていない味噌汁だけでの食事と、ここ月島の毎日の食事だとどちらが栄養バランスがいいかは考える余地すらない気がします。

もちろん、50年以上前の事であり、堀切菖蒲園のところてんインターンの時代の様々な、当時は耐え難かった出来事の数々も、今では単なる「そういう事もあったね」という青春時代の思い出でしかありませんけどね。

1963年(昭和38年)伊豆銀水荘ホテル

月島2丁目「蒼ゆり美容室」社員旅行

 月島で初めて見る、洗練された技術

 

 そして、ここ月島へ来て、私は初めて「洗練された技術」を目の当たりにしました。

月島には先輩美容師が5名居たと先述しましたが、

その中でも秋田県出身の雨子さん(仮名)、当時27歳のテクニックが抜群でした。

 そして、私はその後もその雨子さんに匹敵するテクニックを持つ美容師はいまだに見た事ありません。

雨子さんはシャンプー、ロット巻き、セット、カットは無論、

お客様への打診などに関しても、とても上品でスマート。

夜会巻きも他の美容師がピン数本使用する様な場合でも、

雨子さんの夜会巻きは可憐な手つきでピン2本だけでカッコ良く仕上げてしまいます。

 

私は店内ではシャンプーとフケ削り担当でしたが、

手が空いた時は積極的にその雨子さんの助手をする様にしました。

雨子さんの洗練されたスマートで巧みな様々な技術、

お客様とのコミュニケーションテクニックを盗む目的で、です。

もちろん雨子さんのヘルプばかりしていたら他の先輩達は不愉快な気分になるでしょうから、その辺は考えながら雨子さんの助手を行いましたね。

1963年(昭和38年)伊豆銀水荘ホテル

昭和38年「蒼ゆり美容室の旅行先、伊豆の銀水荘の客間にて」

 そんな或る日、ちょっとお客様が途切れたタイミングで雨子さんは私にこう言うんです。「知ちゃん、シャンプーしてあげるからいらっしゃい」と。

私は恐れ多くて丁重に遠慮しました。すると雨子さんはこう言うんです。

「知ちゃん、シャンプーが上手い人は総てが上手いから。

でね、シャンプーだって上手い人にやってもらったほうが上手くなるのよ」

私は喜んで雨子さんにシャンプーしてもらいました。

 

月島は夢の様な毎日だけど、インターン時より業務内容は格下げに・・・

 毎日の食事も豪華、給料は10倍、奥さんは私生活には一切干渉せず、

素晴らしい先輩方に囲まれ、定休日の火曜日はいつもかっちゃんと二人で店の前でタクシーを拾い、銀座で夜中まで遊ぶ・・・そしてタクシーで帰宅。

そして更に、かっちゃんに至っては、実は故郷の南会津郡田島町に彼氏もいたのです。

この頃かっちゃんが彼氏の白黒写真を突然見せてくれたのです。

(その写真の男性は、そこそこいい顔した男性でした。つまりかっちゃんは故郷に彼氏が居たのに、私と東京に出る事を選んだ)

そして、私は私で会津若松の専門学校時代に知り合った新潟の尾曽川さんとの文通も順調に続くといった、月島に来てからは夢の様な満ち足りた生活にはなっていました。

 

しかし、実は私もかっちゃんもここ月島での美容師としての業務はインターンの時より格下の業務に甘んじていました。

 インターンの1年間、私はシャンプーは無論、ロット巻きからセットに至る迄先生に任されていました。そしてかっちゃんはそんな私のアシスタントをしてくれていました。

私が行わないのはカットだけでした。

もちろん私もかっちゃんも茨城での美容師免許試験に合格しているとは言え、

まだ美容師登録という書類手続き申請は行ってませんでしたので、

正式には美容師ではありません。

ですが、私は月島ではシャンプーとフケ削り専門、

そしてかっちゃんに至っては店内にすら出させてもらえない、完全な裏方でした。

しかしながら、それでも不満が無い程月島は居心地は最高でした。

ところがそんな中で、一人悩む先輩がいました。

静岡出身の絵里子さん(仮名)、当時24歳でした。

(昭和38年)和田倉噴水公園

昭和38年[蒼ゆり]の先輩、静岡出身の絵理子さん(仮名)と和田倉噴水公園にて

 常に何かに悩んでいた先輩、絵里子さん

 絵里子さん(仮名)は静岡県出身の美容師で、月島の蒼ゆりに私達と共に住み込んでいる先輩美容師の一人でした。

しかし絵里子さんに関しては、何故か店内でお客様を担当している姿を見た事がありませんでした。

かっちゃんとは異なり、絵里子さんは店内に居るにもかかわらず、

お客様を担当しないのです。不思議です。

まあ、一度だけ見た気がするので、一応美容師資格はあったのだと思います。

そして、絵里子さんは、仲間からはどちらかというと相手にされていない感じでした。

いまだにその理由は不明です。

ですが、特にイジメという感じもしませんでした。

そんな状況の絵里子さんは、新入りの私に色々相談して来るようになりました。

かっちゃんも新入りですが、かっちゃんはそもそも、何故か店に出してもらえないので、絵里子さんからすれば、顔を合わす機会が食事の時と毎日の大掃除の時と、

就寝の時だけなので、かっちゃんに慣れる機会が無く、

私に活路を見出そうと思ったのかも知れません。

 

私は、休日の火曜日といえば、かっちゃんと2人でタクシーを呼び止め、

銀座まで出て深夜まで遊んでいましたが、

常にとことん悩んでいる絵里子さんの悩みを聞く為に、

火曜日にたまに絵里子さんとも外出する様にし、

絵里子さんとは皇居外苑の和田倉噴水公園などにも行きました。

しかし、結局、何にそんなに悩んでいるのかは分かりませんでした。

幾つか悩みを打ち明けてはくれましたが、他にもある様で、

絵里子さんの最後の締め言葉は常に「色々あるのよ・・・」でした。

 

しかしその絵里子さんの提言と協力のお陰で、

私は茨城での美容師免許試験合格から遅れる事1年後、

美容師登録の書類申請を行い、昭和39年1月に美容師免許証を取得しました。

 

こんな月島二丁目「蒼ゆり美容室」で1年1か月が過ぎようとした 或る日、

私は奥さんの一言で、翌日には月島を去る決意をします。

[うちではシャンプーをビッシリ3年やって貰わないとお客様は触らせない]

 業務中、私を見ていた奥さんが突然こう私に言ったのです。

「ともちゃん、ともちゃんもそろそろお客様担当したいだろうけどね、

うちでは3年、シャンプーをビッシリやってもらってからでないとお客様は触らせる事は出来ないからね」

シャンプーばかり3年間・・・

つまりあと2年はこのままシャンプー担当・・・

私は父との約束がありました。

父との約束「4年で1人前に」

東京で4年で1人前になる、という約束です。

この奥さんの一言は、その約束のある私にとっては受け入れ難い言葉でした。

何故なら、既に堀切菖蒲園のフラッシュ美容院でのインターン1年、

そしてここ月島の蒼ゆりでのシャンプー担当で1年1か月という、

既に東京で2年1か月が経過していたからです。

その上まだ2年間シャンプー担当では、

それだけで父との約束である4年という期限が過ぎてしまうのです。

私はその場では奥さんに「はい・・・」というしかありませんでしたが、

こころの中では「今すぐやめなければならない・・・」と思いました。

そして、その日の夜、父に電話し、翌日には父に月島迄来てもらい、

父から奥さんに「母の体調がよくないので本日限りで田舎へ帰る」と話してもらい、

私がその日に辞める事を奥さんに了解してもらいました。

奥さんの目から、一滴の涙が落ちた

奥さんの目からは一滴の涙が流れ落ちました。

仕事に厳しかった奥さんの目から、意外な涙でした。

会津若松から来た父に対し、奥さんは、私はこの1年よく頑張っていたといい、とても期待していただけに残念です、と言って一滴の涙を落としてくれました。

奥さんは江戸っ子風のチャキチャキとした商売人気質で、売り上げに関してとても厳しくシビアな人でしたが、

それ以外の事、例えば美容師達が休日はどこで何をしているかなど、

全く干渉しない人でした。

そんな奥さんの一粒の涙は今でも印象に残っています。

3年間どこへ行くも一緒だった専門学校からの友「かっちゃん」とお別れ

私は、ここ月島は大好きでした。

4年で1人前という約束さえなければ、私は何年でもシャンプーとフケ削り担当をしていたと思います。何故なら、ロット巻きは嫌いだったからです。

あの、ロットを固定する際の輪ゴムがパチッと弾けた場合、

コールド液が顔に弾け飛んでくる。すると私は顔が赤くかぶれる。

だから、シャンプー担当でもいい訳です。しかし、父との約束があります。

私は故郷会津若松の美容専門学校時代からインターン堀切菖蒲園フラッシュ美容院、

そしてここ月島の蒼ゆる美容室までの3年間、いつも一緒に行動したかっちゃんとお別れをしなければなりませんでした。

インターンのフラッシュ美容院を辞める時は私にもかっちゃんにも理由がありましたが、今回ばかりは私だけの都合で月島を去るからです。

私の都合だけでかっちゃんまで辞めさせる訳にはいかないからです。

 

私はかっちゃんにお別れを言い、

とりあえず父と一旦会津若松へ帰郷しました。

そして、翌日には新聞で都内の美容師の求人を見つけ、

即東京に戻りました。