昭和39年「東京の美容師の富士登山」
1964年(昭和39年)東京の美容師の富士登山風景
幡ケ谷時代は先輩の靖さん達と富士山への登山も行いました。
後先になりますが、この写真は多分下山中だと思います。表情に余裕が戻っています。
この富士山への登山(上り)で我々東京の美容師軍団はバテました。
因みに上の写真の左端は幡ヶ谷の先輩美容師の靖さん、中央の人は誰か分からない。
しかし、中央の女性も当時の東京のどこかの美容師だとは思います。
そして、私は下のモノクロポートレートに写るお二人と親しげに写っていますが、
このお二人もどこの美容師なのか記憶にないという・・・
尚、背景に写っている富士山の宿泊施設「合目ホテル(名称不明)」ですが、
今はもう建て替えてるかも知れませんね。
下の写真は鎌岩館前でのモノクロ写真、左は先輩の靖さん。
この鎌岩館は現在建て替えられている様ですね。インターネットで見ました。
下のモノクロ写真は富士山頂浅間大社奥宮付近での1枚。
この時私達東京の美容師軍団はとにかくバテていて、
写真撮影のポーズをとる元気もなかったと記憶しています。
下山は楽だったんですけどね。
下の写真、左は先輩ですが右の方は誰だか不明。
下の写真は富士山からの下山風景。4人しか写っていませんがもう少しいます。
この写真も下山中ですが、砂の斜面を駆け降りる箇所もありました。
↓登山中、富士山八合目太子館前。美容師の疲労がピークに・・・
バテまくって私も後悔の表情。皆さんのこの時の表情をお見せ出来ないのが残念です。
1960年代[東京の美容師の休日(火曜会)]
私は東京での美容師時代、私達美容師の休日である火曜日は何をしていたかというと、
前の記事の最後でも少し触れましたが、
という休日の過ごし方でした。
そして昭和39年、正規の美容師として採用された幡ヶ谷のズーロ美容室時代は、
先輩美容師と「火曜会」のメンバーになり、首都圏近郊を色々と遊びに行きました。
もちろん「火曜会」とは関係なく先輩美容師の靖さん陽さんと長野県や福島県、
富士山などにも行きましたね。
↑読売ランドでの1枚。
実は全然覚えてないのですが、①②③の写真の撮影日は同一日の様です。
私、靖さん、陽さんの幡ヶ谷ローズ組の服装が3枚とも同じです。
読売ランド⇔静岡を同一日に移動したんでしょうか・・・
④「社員旅行」千葉県のマザー牧場に行く際のフェリー甲板での1枚
❺靖さんの故郷「長野県」で親切な人が私達3人を撮影してくれた一枚
この長野県の松本城での記念写真は火曜会ではなく、
幡ケ谷ズーロの先輩である靖さん陽さんと3人で行った休日の旅行です。
この長野県は靖さんの故郷で、この時は長野で靖さんのおばさまともお会いしました。
この頃、 休日にそんなに派手に遊んだ記憶はありませんので、
火曜会のマザー牧場、読売ランド、そして幡ヶ谷の3人で靖さんの故郷長野県、
そしてこのズーロ時代には、靖さん達と富士山登山に行ったぐらいだと思います。
この富士登山は美容師にはきついものがありましたね。
幡ヶ谷の先輩美容師[靖さん陽さん]との出会い
女性らしい優しいズーロ美容室の瞬子先生
幡ヶ谷のズーロの瞬子先生は、赤い胸掛けタイプのエプロンが似合う、
スラっとしたとても上品な女性らしい先生でした。
幡ヶ谷のズーロの瞬子先生は、堀切菖蒲園の先生の様な欲求不満ストレスの癇癪がある訳でも無く、月島2丁目の奥さんの様な、腰掛け前垂れの似合うチャキチャキ江戸っ子な八百屋のおばさん、という雰囲気でも無いごく普通の奥様という感じの人でした。
先生が作るメニューは、朝はパンとサラダとコーヒーと季節の果物。
夜は焼き魚などの和食。
そんな瞬子先生のお昼の得意料理は、野菜炒めと野菜サラダでした。
大体お昼はいつもこれでした。
なので、月島の奥さんの様になんでも作れる、という感じではありませんでした。
とは言っても、瞬子先生の野菜炒めと野菜サラダは毎回入っている野菜が違い、
野菜炒めやサラダも何種類ものバリエーションがあり、見た目もよく、飽きも来ず、
味もとても美味しいものばかりでした。そして、こだわりもありました。
或る時、先生がトマトを使用したスパゲッティを作っていました。
私が、ケチャップは使わないんですか、と問うたところ、
先生は、「ケチャップなんか使わないわよ・・・だって主人がこれでないと食べないのよ、」と言っていました。
前の記事でも少し触れましたが、先生のご主人は大使館勤めの人でした。
私も何度か大使館勤めのそのご主人さんを見かけた事はあるんですが、
住み込み美容師達と共に朝食を摂る、夕食を摂るという事は一度もありませんでした。
これは月島2丁目の蒼ゆり美容室のご主人さんも全く同じでした。
蒼ゆりのご主人さんは浅草で白猫というスナックを経営していたらしいのですが、
やはり住み込み美容師達との接触は殆んどありませんでした。
今思えば葛飾堀切菖蒲園のフラッシュ美容院だけがその真逆でしたね。
「手が空いている時はこっちに来てコーヒー飲みなさい」
そして、瞬子先生はとてもコーヒーが好きな女性でした。
気が付けば隣の休憩室でコーヒーを飲んでおり、
私達にも常に「手が空いている時はいつでもこっちに来てコーヒーを飲んでいればいいのよ」という、全然ガツガツしていない先生でした。
それでもお客様も1日10人前後、月にして30人は来られていました。
もちろん同じく個人営業店なのに1日70人、月にして1,750人のお客様をこなす月島の蒼ゆりとは比較になりませんが、
堀切菖蒲園のフラッシュ美容院の、週に3人、月にして12人程度しかお客様が来ない状況とは違いましたので、幡ヶ谷の瞬子先生には余裕があり、おっとりしていましたね。
そして私は、ここ幡ヶ谷ズーロの2人の先輩美容師「靖さん」「陽さん」と親友になれました。まあ、この二人と親友になれたというより元々靖さんと陽さんの2人が親友であり、その二人に新たに私が追加された、という感じです。
長野県出身の靖さん、福島県出身の陽さん
2人の先輩美容師、靖さんと陽さんは私より2歳年上で、当時2人は22歳でした。
靖さんは長野県出身、陽さんは私と同じく福島県出身でした。
靖さんの喋り方は、美川憲一を女性にした様な独特のゆっくりした、
絡みつく様な喋り方に特徴のある、割となんでも積極的なタイプでした。
対する陽さんは、ごく普通の、どちらかというと控え目な感じが特徴の人でした。
でも、既に二人には彼氏が居ました。
靖さんの彼氏は無職の小物のチンピラだと、靖さん本人が話してくれていました。
陽さんの彼氏はごく普通の勤め人で、三郎さん(仮名)という人との事。
(ただ、靖さんはチンピラとは別れ2年後にクリーニング屋さんと結婚します。靖さんはチンピラを捨てる訳です。単にチンピラが靖さんに惚れていただけなのです。とは言え、実際に付き合ってはいたらしいんですけどね。そして陽さんも2年後三郎さんと結婚します)
そう言えば、月島に置いてきたかっちゃんも故郷の田島町に彼氏が居ました。
その後どうなったんだろう・・・
私はこの時も尚新潟の尾曽川さんとの文通は続いてましたが、
新潟と東京なのでなかなか会う事はありませんでしたね。
↓1964年(昭和39年)幡ヶ谷ズーロ美容室の慰安旅行でマザー牧場へ行く際のフェリー甲板
私は仲良くなった二人の先輩美容師「靖さん」「陽さん」と色んなところへ行っていた様です。「様です」というのは、今残ってる当時のモノクロ写真を見ても、
実はあまり記憶にないからなのです。
因みに葛飾堀切菖蒲園のフラッシュ美容院でのインターン時代の1年間は、
休日の火曜日と言えば決まってインターン仲間のかっちゃんと二人で上野公園をブラブラするだけでした。
何故なら、私達にはお金が無かったし、先輩もおらず、
お金も無く、地理も知らない私とかっちゃんだけでは
どこへも行けなかったというのがあります。
そして、次の勤務先である中央区月島2丁目の蒼ゆり美容室の1年間では私とかっちゃんにはお金も出来、インターン時代の上野公園ブラブラから銀ブラへの格上げされ、
そして先輩美容師もいたので一緒に皇居外苑に遊びに行ったり、
お店で伊豆の銀水荘ホテルへの旅行もあり、
少しは休日の過ごし方がリッチにはなっていました。
しかし、東京での美容師生活3年目となるこの幡ヶ谷のズーロ美容室の技術者となって、そこで仲良くなれた二人の先輩技術者との出会いで、
これまでの2年間より様々なところへ遊びに行く様になったと思います。
もちろんズーロ美容室自体にも社員旅行がありましたが、
当時靖さん陽さんという先輩が、東京の美容師達で構成されている「火曜会」のメンバーであり、私もその火曜会のメンバーに入ったというのもあります。
火曜会は東京都内の美容室で働く美容師達の親睦会の様なもので、
美容師だけでなく、材料屋さんもメンバーとして入っていました。
昭和39年[渋谷区幡ヶ谷]ズーロ美容室
ついに本物の美容師としての面接!
昭和39年2月、私は1年間お世話になった中央区月島2丁目の蒼ゆり美容室を辞め、
一旦父と会津若松に帰省しました。
そして翌朝には会津若松の読売新聞の求人欄で東京の住み込み美容師募集をピックアップし、朝一からまた東京に向かい、昼には東京に到着し、
東京駅で東京版の新聞を買い求めました。
東京の新聞には会津若松版の新聞より東京の求人は豊富に掲載されているからでした。
私はその紙面で渋谷区幡ヶ谷のズーロ美容室(仮称)というところが住み込みの美容師を募集している事を知りました。
早速公衆電話から即日面接をとりつけた私が京王幡ヶ谷駅に降り立った時には15時程になっていたと記憶しています。
さあ、美容師登録申請も済ませ、美容師免許も取得した最初の面接です。
面接危機一髪[昭和39年/渋谷区幡ヶ谷]ズーロ美容室
目的の幡ヶ谷ズーロ美容室は明るい角地に立地した築浅のモダンな店舗付き住宅という感じでした。これまでの堀切菖蒲園のフラッシュ美容院、月島2丁目の蒼ゆり美容室の様な築古年の古ぼけた建物とは全く違い、”モダンな美容室!”という雰囲気です。
私は面接に挑む為、店内に入りました。
明るい店内には20代半ばほどの女性美容師2名と、胸からの赤いエプロンを下げた先生らしき40手前程の上品な女性が居ました。
その赤いエプロンの上品な女性はズーロの瞬子先生(仮名)でした。
「うちは技術を見せてもらうから」
私は美容室の面接はこれで3回目でした。
そして、この幡ヶ谷ではどんな面接になるのかと思っていたら、
何と面談などは無く、ズーロの瞬子先生は技術で判断するというのです!
先生曰く「うちの面接は技術を見せてもらうから」とサラっと一言で終わり・・・
そして「あと10分もしたらセットのお客様が来るから、希望を聞いて、担当してちょうだい」と言ったかと思うと、
そのまま先生は壁一つ隔てた休憩室に消えていったのです。
私は焦りました。
何故なら、堀切菖蒲園でのインターン1年間は、お客様は週に3人来ればいい程だったから、技術など殆んど身についているとは言えないし、
その後の月島2丁目での1年間はシャンプー&フケ削り専用要因でしたので、
美容師免許はあるとはいえ、面接に耐えられる様な技術的経験など積んでいない、
というのが現実だったからです。
ところがすぐさまそのお客様は来店されました。
30代のどこかの奥様の様な感じでした。
これはもう絶体絶命のピンチです。でもやるしかありません。
賽は投げられたのです。
私はその時、咄嗟に月島のトップ「雨子さん」の様にお客様に対応しました。
しかしそれは自然と出ました。月島で1年間雨子さんの技術を盗もうといつも近くで助手していたからかも知れません。
私は雨子さんのパフォーマンスの様に「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ~。」とさりげない笑顔と雨子さんの様な柔らかい声のトーン、表情、姿勢でお客様にセット椅子に掛けてもらい、
雨子さんの様な聞き方でおお客様に希望されるセットを打診しました。
するとお客様は、
セットは私に任せるので自分に似合うようにして欲しいとの事でした。
ここで気をつけなければいけない事は、
幾ら私に任せる、似合う様にして欲しいと言われたからと言って、
仕上がりがお客様自身の思い描いている自分像と余りに違っていてはいけない。
やはり、シルエットや仕上がりの印象を決めかねないポイントポイントでは、
事前にお客様に打診したほうがいい、そう感じました。
何故なら、月島トップの雨子さんは、月島では唯一お客様からチップを貰えてる美容師でしたが、その雨子さんは技術が洗練されていただけではなく、お客様にポイントポイントで好みや希望を打診していたからです。
私は要所要所で雨子さんがしていた様に、お客様の好みを打診し、
網カラーでウェーブをつけていきました。
しかしながら先生は最初に奥に消えたまま出て来ません。
店内に居るのは私とそのお客様、
後はお店の後ろの方で例の二人の先輩女性美容師が寄り添って立ち、
こちらを終始無言で見ているだけでした。
そうこうしているうちに、別のお客様が来店され、
お店の隅で立って見ていた二人の先輩の内の一人が来店されたお客様を担当し始めました。
網カラーが終わり、ネットを被せ終えた私は、お客様をドライヤー椅子にご案内し、
ドライヤーを始動させ、お客様に熱くないか等をお聞きした後、
先程来店されたお客様のセットを担当し始めた先輩の手法を観察する機会に恵まれました。
「よし、これを真似よう・・・」
私はドライヤーが終了したお客様に、希望や好みをお尋ねしながら、
隣の先輩美容師の手法を真似ていきました。
お客様の思い描いていた自分像に近付きつつあったのかも知れません。
お客様の表情にどんどん自身が感じられる様になって来ました。
そして、お客様が満足そうな表情で私にこう尋ねてこられました。
「あなたは美容師になって何年?」
お客様はもともとこのズーロのお客様で、私を見たのは今回初めてという事で、
私の事が気になった様です。
お客様の表情や声のトーンからして、私のつたない技術に疑問を感じたから質問した、
という雰囲気ではなさそうでした。
しかしながら、さすがに「お客様が初めてです。しかも今、面接中です。お客様のセットが上手く行えたら、私合格なんです。つい先日まで月島でシャンプーとフケ削りサービス専用要員でして・・・」とは言えず、咄嗟にこう聞き返してしまいました。
「何年ぐらいに見えますかぁ~」
するとお客様は、笑顔で「そうね、もう3年ぐらいかな?」と答えてくれました。
私はお客様に「会津若松で美容学校1年、堀切菖蒲園でところてんインターン1年、月島2丁目でシャンプーふけ取り1年の計3年です」とはさすがに言えず、
「あ、そうなんです、よくお分かりになられますね・・・」と言ってしまいました。
こうしてお客様は満足してお帰りになられ、私の採用試験は無事通過しました。
ちょうどその時、ラジオから梓みちよのこんにちわ赤ちゃんが聴こえていました。
結局瞬子先生は一度も私の仕事を見ずに採用試験は終わりましたが、
先生は二人の先輩美容師に私の仕事ぶりを査定させていたのだと思います。
だから二人の先輩は店の隅で黙って立ってこちらを見ていたのでした。
私は無事採用試験に合格し、その日から幡ヶ谷のズーロ美容室への住み込みとなりました。給料は月島より1,000円高い16,000円(※月島はシャンプーだけで15,000円出してくれていたので、それはそれでよく出してくれていたと思います)。そして、私の査定を任されていた2人の先輩美容師も、住み込みでした。
この様に瞬子先生は夕方は住み込み美容師、そして大使館勤務のご主人の夕飯の用意があり、いつもその時間は店には出られないのでした。
ちょうど私がお客様を担当した時間帯が、その時間帯だったのです。
そして私は、この渋谷区幡ヶ谷のズーロ美容室の先輩2人ととても仲良くなり、
そこから運命が大きく動いていくのでした。
昭和38年[月島2丁目]蒼ゆり美容室(仮称)
↓中央区月島二丁目の蒼ゆり美容室の先輩、絵里子さんと行った1963年当時の東京皇居外苑和田蔵噴水公園の、今とは周囲のビル群の雰囲気が異なる昭和レトロな風景写真
1963年(昭和38年)春、私とかっちゃんは痛恨の住み込みインターンで1年間耐えた堀切菖蒲園のフラッシュ美容院から脱出したその足で即、
茨城迄出向き美容師試験を済ませ東京にとんぼ返りし、
面接をとりつけた中央区月島2丁目の「蒼ゆり美容室」の門を叩きました。
昭和38年[中央区月島2丁目]蒼ゆり美容室(仮称)
面接は40代後半の江戸っ子風の奥さん(美容師ではないが経営者)が行い、
私とかっちゃんの二人は即採用され、その日から2階に住み込みとなりました。
月島2丁目の蒼ゆり美容室は先輩技術者が5人いて、通勤は一人だけで、
あとの4人は全員住み込みの美容師。
面接時の奥さん曰く、毎日50人のお客様をこなしているという事でした。
美容師7名、一日70人のお客様をこなす月島!
そして、これからは私とかっちゃんも含めて技術者7名となるので、
毎日70人のお客様をこなしてもらわないと、皆に給料は払えないからね、
と言われました。
私とかっちゃんからすれば、1日70人のお客様をこなすというだけで、
もう「凄いな・・・」という驚きしかありませんでした。
何故なら昨日迄インターンしていた葛飾堀切菖蒲園のフラッシュ美容院は、
お客様は週に3人だったので、ここ月島の1日のお客様数は堀切菖蒲園のフラッシュ美容院の1か月のお客様数より断然多いのですから・・・
そして、私達の給料もいきなり15,000円です。
昨日迄行ってたフラッシュ美容院は1,500円でしたから、給与は一気に10倍です。
もちろん、フラッシュ美容院が本来規定ではインターンへは5,000円支払わなければいけないところを違反して1,500円しか支払っていなかったからこそ10倍な訳ですが。この事実はこの月島の奥さんにこの時初めて教えてもらった事です。
月島の食事は毎日奥さんの豪勢な手作り。買い出しは築地市場で。
そしてここ月島の美容室は、お客様の数だけではなく、
毎日の食事も堀切菖蒲園のフラッシュ美容院とは全く別物でした。
もちろんここ月島は「儲けている」というのもありますが、
奥さんの料理に関する器用さがずば抜けていました。
食材はいつもローテーションで美容師1名を同行させ、徒歩数分の築地市場で仕入れ、
その食材で奥さんが毎日9人分(美容師7名と奥さん、そして浅草で白猫というスナックを経営しているご主人さんの全9名分)の朝昼晩の3食を作るのですが、
とんかつ定食、八宝菜、親子どんぶり、あんかけ硬揚げそば、スパゲッティー、
すき焼き、焼き魚、日本そば、野菜サラダ、野菜炒め、肉じゃが、ハヤシライス、オムレツ、酢豚、カレーライス、焼き飯、唐揚げ、豚生姜焼き、鍋物など、和食、中華、洋食問わず、おおよそその時代に存在した料理なら殆んど作って出してくれました。
もう、インターン時代、白米とところてんの毎日のせいで炭水化物過多になり浮腫んでいたかっちゃんと私も、月島の毎日の食事でどんどん浮腫みが消えていきました。
堀切菖蒲園のフラッシュ美容院でインターンしていた時、先生の旦那は毎日ところてんと白米の食べ過ぎでどんどん浮腫んでいく私とかっちゃんを見て、
「見て見ろ!うちは栄養がいいから二人共どんどん太り始めた!」とか自信満々に言い放ってましたが、それ本当でしょうかねえ・・・
毎日白米とところてんと、後はモヤシしか入っていない味噌汁だけでの食事と、ここ月島の毎日の食事だとどちらが栄養バランスがいいかは考える余地すらない気がします。
もちろん、50年以上前の事であり、堀切菖蒲園のところてんインターンの時代の様々な、当時は耐え難かった出来事の数々も、今では単なる「そういう事もあったね」という青春時代の思い出でしかありませんけどね。
月島で初めて見る、洗練された技術
そして、ここ月島へ来て、私は初めて「洗練された技術」を目の当たりにしました。
月島には先輩美容師が5名居たと先述しましたが、
その中でも秋田県出身の雨子さん(仮名)、当時27歳のテクニックが抜群でした。
そして、私はその後もその雨子さんに匹敵するテクニックを持つ美容師はいまだに見た事ありません。
雨子さんはシャンプー、ロット巻き、セット、カットは無論、
お客様への打診などに関しても、とても上品でスマート。
夜会巻きも他の美容師がピン数本使用する様な場合でも、
雨子さんの夜会巻きは可憐な手つきでピン2本だけでカッコ良く仕上げてしまいます。
私は店内ではシャンプーとフケ削り担当でしたが、
手が空いた時は積極的にその雨子さんの助手をする様にしました。
雨子さんの洗練されたスマートで巧みな様々な技術、
お客様とのコミュニケーションテクニックを盗む目的で、です。
もちろん雨子さんのヘルプばかりしていたら他の先輩達は不愉快な気分になるでしょうから、その辺は考えながら雨子さんの助手を行いましたね。
そんな或る日、ちょっとお客様が途切れたタイミングで雨子さんは私にこう言うんです。「知ちゃん、シャンプーしてあげるからいらっしゃい」と。
私は恐れ多くて丁重に遠慮しました。すると雨子さんはこう言うんです。
「知ちゃん、シャンプーが上手い人は総てが上手いから。
でね、シャンプーだって上手い人にやってもらったほうが上手くなるのよ」
私は喜んで雨子さんにシャンプーしてもらいました。
月島は夢の様な毎日だけど、インターン時より業務内容は格下げに・・・
毎日の食事も豪華、給料は10倍、奥さんは私生活には一切干渉せず、
素晴らしい先輩方に囲まれ、定休日の火曜日はいつもかっちゃんと二人で店の前でタクシーを拾い、銀座で夜中まで遊ぶ・・・そしてタクシーで帰宅。
そして更に、かっちゃんに至っては、実は故郷の南会津郡田島町に彼氏もいたのです。
この頃かっちゃんが彼氏の白黒写真を突然見せてくれたのです。
(その写真の男性は、そこそこいい顔した男性でした。つまりかっちゃんは故郷に彼氏が居たのに、私と東京に出る事を選んだ)
そして、私は私で会津若松の専門学校時代に知り合った新潟の尾曽川さんとの文通も順調に続くといった、月島に来てからは夢の様な満ち足りた生活にはなっていました。
しかし、実は私もかっちゃんもここ月島での美容師としての業務はインターンの時より格下の業務に甘んじていました。
インターンの1年間、私はシャンプーは無論、ロット巻きからセットに至る迄先生に任されていました。そしてかっちゃんはそんな私のアシスタントをしてくれていました。
私が行わないのはカットだけでした。
もちろん私もかっちゃんも茨城での美容師免許試験に合格しているとは言え、
まだ美容師登録という書類手続き申請は行ってませんでしたので、
正式には美容師ではありません。
ですが、私は月島ではシャンプーとフケ削り専門、
そしてかっちゃんに至っては店内にすら出させてもらえない、完全な裏方でした。
しかしながら、それでも不満が無い程月島は居心地は最高でした。
ところがそんな中で、一人悩む先輩がいました。
静岡出身の絵里子さん(仮名)、当時24歳でした。
常に何かに悩んでいた先輩、絵里子さん
絵里子さん(仮名)は静岡県出身の美容師で、月島の蒼ゆりに私達と共に住み込んでいる先輩美容師の一人でした。
しかし絵里子さんに関しては、何故か店内でお客様を担当している姿を見た事がありませんでした。
かっちゃんとは異なり、絵里子さんは店内に居るにもかかわらず、
お客様を担当しないのです。不思議です。
まあ、一度だけ見た気がするので、一応美容師資格はあったのだと思います。
そして、絵里子さんは、仲間からはどちらかというと相手にされていない感じでした。
いまだにその理由は不明です。
ですが、特にイジメという感じもしませんでした。
そんな状況の絵里子さんは、新入りの私に色々相談して来るようになりました。
かっちゃんも新入りですが、かっちゃんはそもそも、何故か店に出してもらえないので、絵里子さんからすれば、顔を合わす機会が食事の時と毎日の大掃除の時と、
就寝の時だけなので、かっちゃんに慣れる機会が無く、
私に活路を見出そうと思ったのかも知れません。
私は、休日の火曜日といえば、かっちゃんと2人でタクシーを呼び止め、
銀座まで出て深夜まで遊んでいましたが、
常にとことん悩んでいる絵里子さんの悩みを聞く為に、
火曜日にたまに絵里子さんとも外出する様にし、
絵里子さんとは皇居外苑の和田倉噴水公園などにも行きました。
しかし、結局、何にそんなに悩んでいるのかは分かりませんでした。
幾つか悩みを打ち明けてはくれましたが、他にもある様で、
絵里子さんの最後の締め言葉は常に「色々あるのよ・・・」でした。
しかしその絵里子さんの提言と協力のお陰で、
私は茨城での美容師免許試験合格から遅れる事1年後、
美容師登録の書類申請を行い、昭和39年1月に美容師免許証を取得しました。
こんな月島二丁目「蒼ゆり美容室」で1年1か月が過ぎようとした 或る日、
私は奥さんの一言で、翌日には月島を去る決意をします。
[うちではシャンプーをビッシリ3年やって貰わないとお客様は触らせない]
業務中、私を見ていた奥さんが突然こう私に言ったのです。
「ともちゃん、ともちゃんもそろそろお客様担当したいだろうけどね、
うちでは3年、シャンプーをビッシリやってもらってからでないとお客様は触らせる事は出来ないからね」
シャンプーばかり3年間・・・
つまりあと2年はこのままシャンプー担当・・・
私は父との約束がありました。
父との約束「4年で1人前に」
東京で4年で1人前になる、という約束です。
この奥さんの一言は、その約束のある私にとっては受け入れ難い言葉でした。
何故なら、既に堀切菖蒲園のフラッシュ美容院でのインターン1年、
そしてここ月島の蒼ゆりでのシャンプー担当で1年1か月という、
既に東京で2年1か月が経過していたからです。
その上まだ2年間シャンプー担当では、
それだけで父との約束である4年という期限が過ぎてしまうのです。
私はその場では奥さんに「はい・・・」というしかありませんでしたが、
こころの中では「今すぐやめなければならない・・・」と思いました。
そして、その日の夜、父に電話し、翌日には父に月島迄来てもらい、
父から奥さんに「母の体調がよくないので本日限りで田舎へ帰る」と話してもらい、
私がその日に辞める事を奥さんに了解してもらいました。
奥さんの目から、一滴の涙が落ちた
奥さんの目からは一滴の涙が流れ落ちました。
仕事に厳しかった奥さんの目から、意外な涙でした。
会津若松から来た父に対し、奥さんは、私はこの1年よく頑張っていたといい、とても期待していただけに残念です、と言って一滴の涙を落としてくれました。
奥さんは江戸っ子風のチャキチャキとした商売人気質で、売り上げに関してとても厳しくシビアな人でしたが、
それ以外の事、例えば美容師達が休日はどこで何をしているかなど、
全く干渉しない人でした。
そんな奥さんの一粒の涙は今でも印象に残っています。
3年間どこへ行くも一緒だった専門学校からの友「かっちゃん」とお別れ
私は、ここ月島は大好きでした。
4年で1人前という約束さえなければ、私は何年でもシャンプーとフケ削り担当をしていたと思います。何故なら、ロット巻きは嫌いだったからです。
あの、ロットを固定する際の輪ゴムがパチッと弾けた場合、
コールド液が顔に弾け飛んでくる。すると私は顔が赤くかぶれる。
だから、シャンプー担当でもいい訳です。しかし、父との約束があります。
私は故郷会津若松の美容専門学校時代からインターンの堀切菖蒲園フラッシュ美容院、
そしてここ月島の蒼ゆる美容室までの3年間、いつも一緒に行動したかっちゃんとお別れをしなければなりませんでした。
インターンのフラッシュ美容院を辞める時は私にもかっちゃんにも理由がありましたが、今回ばかりは私だけの都合で月島を去るからです。
私の都合だけでかっちゃんまで辞めさせる訳にはいかないからです。
私はかっちゃんにお別れを言い、
とりあえず父と一旦会津若松へ帰郷しました。
そして、翌日には新聞で都内の美容師の求人を見つけ、
即東京に戻りました。
昭和37年、痛恨の葛飾インターン時代
昭和37年インターン[葛飾区]京成堀切菖蒲園[フラッシュ美容院]
昭和37年(1962年)春、私とかっちゃんの二人は葛飾区の京成電鉄堀切菖蒲園駅から徒歩7分ほのにあったフラッシュ美容院(仮称)で1年間住み込みでインターンを行いました。
上のモノクロポートレート写真は、一体誰が撮影してくれた1枚なのか全然記憶に無いのですが、葛飾区のフラッシュ美容院(以後「堀切菖蒲園」で統一します)の前で撮影していますので、年代的には昭和37年(1962年)に撮影されたポートレートという事になります。当時私が17歳、かっちゃんは私より1つ下だからこの時「多分」16歳。
この昭和初期を感じさせるレトロというか古い昔の白黒写真からは、
お店の前のコンクリートの割れ目から覗く土の湿り具合(水を打ったのかも知れませんが)や、全体的な光量、二人の軽装といい、なんとなく空気感に「湿度」も感じますので、梅雨時期の6月ぐらいの撮影かな?という気もします。
因みに二人が着用している美容師の白衣はこの堀切菖蒲園の美容室で支給・貸与された制服ではなく、確か会津若松の専門学校の実習時の白衣だったと思います。
2人とも、その白衣持って来たんですね。
このインターン先の美容院、美容院というより「鍼灸院」という雰囲気しませんか?
2人の白衣とその建物の雰囲気からしてそんな雰囲気。
辛うじて右側にパーマ屋さんと分かるショーケースがあるからいいものの、
かっちゃんの左肩(向かって右側の肩)の少し上にある、
ガラスに「美容院」と書かれている末尾の「院」の文字しか見えない場合、
白衣の二人は美容院の従業員というより鍼灸院のスタッフに見えます。
それにしてもショーケース下段に陳列されている2本のガスボンベは何なんでしょうか。
まあ、美容院なので、考えられる商品としては、セット用のヘアスプレーではないでしょうか。カセットコンロのガスボンベとか殺虫剤のボンベスプレーでは無いと思います。
個人的には右側の△マーク付きのボンベが何なのか、気になります。
しかし、それより・・・ボンベの左側にある謎のアイテムのほうが気になりますね。
1960年代初期の美容室でああいうアイテム使ってたんでしょうか?
私は当時の東京の美容師インターン生ですが全然記憶にありません。
尚、ここの立地は木造の低層住宅街という雰囲気でしたが、
前面道路も割と広く、幅員は5メートル前後はあったと思います。
店舗の窓には前面道路を挟んだ向かいの建物の様子が映り込んでいます。
この写真はそんなところですね。
しかし、この堀切菖蒲園のフラッシュ美容院は、
私とかっちゃんにとってはストレスの住み込みインターン1年間となりました。
業務的なストレス?いえ、全然違います。
仕事なんて殆んどありませんでした。
お客様なんて週に3人来ればいいほうでしたから。
ストレスは業務とは全く無関係な事でした。
そしてそのストレスだけならまだしも、栄養失調と赤貧というオマケ付きでした。
食事は3食ところてんと白米、給料は月1,500円、そして嫌がらせ
ここの三度の食事のメインディッシュは「毎日ところてん」なのです。
毎日ところてんと山盛り2杯の白米、そしてモヤシしか入っていない味噌汁。
私とかっちゃんは白米をお茶碗に押さえつけて山盛り2杯食べていましたが、
それでも食べた直後からお腹が空きまくりでした。
毎日ところてんと白米では栄養が偏っているからだと思います。
でもここでは美容師の先生もその旦那も毎日同じ食事内容なので、私達だけがそういう炭水化物過多の偏ったメニューだった訳ではなかったので、仕方ありません。
ただ、毎日そのメニューですから、
私もかっちゃんも美容師の先生も、炭水化物過多で浮腫んでいました。
先生の旦那は小学校の教師だったので、昼間は勤務先の小学校で給食か何かところてん以外の物を食べていたんだろうと思います。
そして、私とかっちゃんの給料は月1,500円という安さでした。
ヤマザキのうぐいすパンが1個10円の時代でしたから、
今の価値だと1,500円というのは、大体15,000円といったところです。
これは後に私とかっちゃんが月島2丁目の蒼ゆり美容室へ面接に行った際、
そこの経営者である奥さんに教えてもらって判明した事なんですが、
当時東京都の美容師組合の規定では、月島2丁目の奥さん曰く、
インターンには月5,000円支払う規定だという事でした。
つまり、私とかっちゃんが無知だからという事で、
堀切菖蒲園のフラッシュ美容院の先生は、インターン生への給与規定を大幅に下回る違反内容で1年間二人を使用していたという事になります。
規定が5,000円なのに1,500円という事は、
私とかっちゃんの二人分を合わせても既定の1人分にすら全く及ばないと言う・・・
でも、ここ堀切菖蒲園のフラッシュ美容院で住み込みインターンをしている時の私達二人は、そんな事まったく知りませんでした。無知は大損です。
そりゃ赤貧に陥りますね。
渋谷のクリーニング店で務めていた2番目の兄が様子を見に来る
そんな赤貧インターン中の或る日、
渋谷のクリーニング会社で仕事をしていた2番目の兄「ひらあきちゃん」が、
当時同棲中の彼女英美さんと共にクラウンに乗って堀切菖蒲園のフラッシュ美容院へ私の様子を見に来ました。ひらあきちゃんは開口一番、
「おお、頑張ってるか、知、浮腫んだな」と言いました。
そして、給料1,500円しか貰っていない私の現状を知ったひらあきちゃんは、
そんな妹の私をを哀れに思い、1,000円のお小遣いをくれました。
これは本当に助かりましたね。
また、この堀切菖蒲園の美容院は、従業員はインターン生である私とかっちゃんの2人だけだったんですが、
私はここの旦那(小学校教師)に背後から抱きつかれそうになり、阻止すべく反撃して肘鉄をかまして以降、その旦那に幼稚な嫌がらせばかりをされるようになり、
私は深夜の尿意に見舞われても、私とかっちゃんの寝室である2階から先生とその旦那が寝ている一階の寝室(居間)を通ってのトイレに行き辛くなってしまい、
本当に困りました。
その旦那は、私が深夜に寝室を覗き見に来てると言い始めたのです。
かっちゃんはかっちゃんで、先生の旦那である小学校教師に、やれ靴下を履かせろ、ネクタイを外せ、靴下を脱がせろなどと毎日「小間使い」の如く使われ、そして、それだけではなく、かっちゃんはかっちゃん自身のちょっとまずい記載内容の日記を美容師の先生に盗み読みされてしまい、かっちゃんはそれ以降美容師の先生に冷遇されてしまいます。
1日でも早く美容師試験を受けて、早くここを辞めたい!
そして、私もかっちゃんもこれ以上は限界となり、インターン期間の規定を満たしたら即ここを辞めよう、という事に決めるに至りました。
そして、インターン規定日数通過後、一日でも早く美容師試験を受けて、
1日でも早くここ堀切菖蒲園のフラッシュ美容院を辞める為に、
美容師試験の実施日が少しでも早い都道府県を調べました。
その当時は東京都より茨城県のほうが試験日が早かった!
すると、当時は東京都より茨城県のほうが、
美容師試験の実施日が早かったのです!
私とかっちゃんは迷いませんでした。
2人は東京でインターンをしている訳ですが、
東京都より美容師試験実施日が早い茨城で試験を受ける事に決めたのです。
こういう経緯から、当時私は東京でインターンをしていたにもかかわらず、
私の美容師免許証は「茨城県知事交付」な訳なのです。
もちろん、当日私と一緒に試験会場の茨城大学に美容師免許試験を受けに行ったかっちゃんの美容師免許証もこの茨城県知事交付版だと思います。
ただ、東京都より茨城県の方が美容師免許試験の実施日が早いと言っても、
そんなに何か月も早かったという記憶はありません。
たかだか1~2週間程度の違いだったと思います。
しかし、二人は東京での試験日がたったそれだけ遅いだけですらもう我慢出来ず、
茨城へ走った訳です。
2人はもうどれほど堀切菖蒲園のフラッシュ美容院での生活が嫌だったか、
という事ですね。
当時の私とかっちゃんは、「一日でも早く美容師免許を受けてここを出て、他所へ行こう!」という精神状態でした。
試験受けた後どうするか?・・・二人共全然考えてなかったですね。
その証拠に、試験当日に二人で「辞めさせて欲しい」と切り出し、
その後どうするかとか全然考えてなく、まずは辞める事、が最優先でしたから。
私もかっちゃんんも、次行くとこ決めてからとか、今夜の寝場所を決めてからなんて、
そんな用意周到な事するタイプじゃなく、
まずは試験日にここを辞める事、それが最優先でした。それほどフラッシュ美容院での住み込みインターンが限界だったんですね。
予想通り先生の旦那である小学校教師に「辞めささない!」と反撃されましたけど、
美容師である先生の方は「とうとうきたか・・・仕方がない」という顔してましたね。
私にはそう映りました。
自分達がインターン2人に対して無茶してるという認識はあったのかも知れません。
先生は終始無言でしたね。
先生は癇癪持ちでかっちゃんの日記を盗み読みし、かっちゃんに辛く当たったり、
私達の給料を大幅に誤魔化したりという面もありましたが、
先生は自分の娘のクラス担任だった13歳年下の小学校教師と鹿児島から駆け落ちして上京して来たぐらいの人ですから、苦労も味わってるだろうけど本来根は明るく気さくな人だと思います。
というのも、先生は自分の娘さん達4人を鹿児島に置いて東京に出て来たのですが、昭和37年の夏に一度だけその娘さん達が東京に遊びに来た事があるのです。
そしてその娘さん達は皆明るくて性格が良かったのです。
当時人見知り傾向だった私ですら、彼女らとはすぐに打ち解けたぐらいですから。
先生も本来はそうオープンで明るい性格だと思いますね。
私は彼女らの事はすぐ好きになりましたね。いまどうしてるのかは分かりませんけど。
でも、そんな本来は明るい性格だった可能性のある先生も。東京で毎日白米大盛り2杯とところてんという炭水化物に偏った食事の害が出て鏡里関かガマガエルの様な姿に変わり果てた48歳、旦那はロバの様な顔とは言え35歳の若さで、学校ではなんと模範教師と言われて生徒の母親からも人気あり。これでは憂鬱にもなるでしょう。
先生のあの姿は間違いなく炭水化物に偏った食事のせいでしょう。
私とかっちゃんもあ毎日のあの食事ですぐに浮腫み始めましたから。
先生は夢を抱いて駆け落ちして東京に出て来たにもかかわらず、寂しい毎日でストレスと欲求不満からああいう癇癪持ちになり果てたのかも知れません。
そう、この13歳年下の小学校教師というのが先生の旦那です。背後から私に抱き着こうとした・・・その旦那が私とかっちゃんが辞める事を頑なに拒否しました。
でも私とかっちゃんは諦めませんでした。茨城での試験に遅れてしまいますから。
最後は「辞めさせてくれないなら警察に行く」と言うと、先生の旦那は諦めましたね。
事前通達もなく、当日いきなり辞めるのもどうかと言われるかも知れませんが、
まだまだ子供で世間知らずの私達だったからこれで済んだものの、
私とかっちゃんからすれば、美容室には週に3人しかお客様も来ず、
技術者は私達が来る前の先生一人状態でも十分過ぎるし、
困る事と言えば毎日の掃除と洗濯、ところてんと味噌汁の準備、
そして先生の旦那の靴下を脱がせたり、履かせたり、ネクタイを外さされたり、
そして、先生の旦那の今でいうセクハラ行為や、
それを拒否した事によるその後の嫌がらせ行為や、先生の毎日のストレスのぶつけ先が急になくなる、というだけの事だから、そんな都合にこれ以上1日たりとも合わせる必要がある?しかも、このすぐ後の面接で分かる事だけど、
私達インターンへの給与も東京の美容組合の規定より遥かに違反して安かった。
私は個人的には美容師の先生はいいところもあったから嫌いじゃなかったけど、
私もかっちゃんももう限界だったからね。
だから1日でも試験の早い茨城迄出向く訳だから。
でも、何度もいうけど、あの娘さん達はとてもいい性格をしていたのが印象的でした。
私とかっちゃんは、笑顔で京成堀切菖蒲園駅まで走り、試験会場の茨城大学へ行き、
試験を受け、夕方前には東京に戻り、新聞の求人欄で都内の住み込み美容師募集の美容室を探しました。
そして中央区月島2丁目の「蒼ゆり美容室」の即日面接が決まり、
2人は月島2丁目へ急行しました。
昭和37年、専門学校卒業「4年で1人前になれ」
1962年(昭和37年)春、1年間学んだ会津高等理容美容専門学校卒業の時が来ます。
(現:会津美容高等専修学校「AIZUビューティーカレッジ」)
いよいよ、次のステップは美容師試験を受ける資格を得る為に、
1年間の美容師インターンを行わなければなりません。
※卒業間際の春[左から砂本さん/私/右藤さん/加田さん/清川さん/二枝さん(総て仮名)]
今は美容師試験を受ける資格を得る為野インターン制度が無くなった代わりに専門学校は2年らしいですが、私の時代、1960年代初期は専門学校は1年、
その後実際に美容室でインターン1年というシステムでした。
この時代、美容専門学校1年間で学ぶ事は、学科が消毒学など13学科、
実技はざっくりいうとパーマのロット巻きとウェーブの2種類で、
それも、週の大半が学科であり、実技は週二回ほどでした。
要は私が美容師を目指した60年代初期は、実技はインターン1年間の実務経験で身に着けるシステムだったという事です。
なので、美容師の実務経験を積むインターン先は重要となる訳です。
父の言葉「人が10年かかるところを、4年で1人前になれ」
さて、昭和36年の春、私伊藤知子は父に連れて来られたカタチで不貞腐れ気味に美容学校に入った訳ですが、前の記事に記した通り、先生方も学生達も皆素晴らしい表情をしていた為、私もやる気を出して頑張った事もあり、学科は総てほぼ満点状態でした。
実技のうち、ロット巻きだけは好きにはなれず嫌いでしたが、
それでもとりあえずはクリア出来ました。
そんな私に父が言った言葉は
「知、人が10年かかるとろを、知は4年で1人前になれ」でした。
そして更に、美容師のインターンは東京で行え、という事でした。
私は東京には特に興味はありませんでしたが、
父には考えがあるのだろうと思い、それに従う事にしました。
上のセピアがかった白黒写真が昭和37年度卒業生の集合写真です。
「会津高等理容美容専門学校、第三回卒業」となってますから、
この頃学校は開校してまだそんなに間が無かった、という事になるんでしょうかね。
尚この年、県外へのインターンを希望していたのは私だけでした。
既に述べましたが、私は父から「東京でインターンをするように」と言われていたので、先生に東京で住み込み可能なインターン先を探してもらいました。
しかし、今のインターネットで情報が共有化されたオンライン情報化社会とは異なり、
当時は福島県から東京都内の美容室のインターン先、しかも住み込みという条件で探すのは難しかった様で、放課後、教室で待っていた私の元へ先生が持ってきた東京のインターン先候補は1件だけでした。
「伊藤さん、東京は1件しか無い・・・」
放課後の教室で待っていた私に、先生は苦しそうな表情でそう言いました。
私としては父に「東京でインターンしなさい」と言われていたので、
その1件しか無いなら、もうそこに決めるしかありません。
私は先生に「じゃあそこにします」と答えました。
すると次の瞬間、後方から声が聞こえました。
「私も東京行くッ!」
その声の主は、田島町から来ていた仲良しの一人、「かっちゃんの声」でした。
かっちゃんはそう言って私の元へ駆け寄って来ました。
こうやって田島から来ていた仲良しのかっちゃんも、
私と同じ東京葛飾の京成堀切菖蒲園駅から徒歩数分の場所にある「フラッシュ美容院(仮称)」へインターンに行く事になりました。
この為、私とかっちゃんは東京葛飾の美容院への面接の日程の関係から、
卒業写真撮影当日の雛段には参加出来ず、
写真右上の長方形枠に顔写真が組み込まれるカタチとなりました。
長方形枠向かって右端が私「伊藤知子」、
その左隣が仲良しの一人、田島町出身の「かっちゃん」です。
尚、卒業写真の欠席者枠でかっちゃんの左隣には会津本郷町から来ていた仲良しの「かねちゃん」も組み込まれていますが、かねちゃんも撮影当日何等かの事情があったのか、撮影現場に居合わせていなかったという事になりますね。
当時は理由を知ってたのかも知れませんが、今はもう思い出せないというか・・・
昭和37年春、この様な経緯で私とかっちゃんは磐越西線会津若松駅から郡山駅行きの列車に乗り、郡山駅から東北本線で東京上野駅まで出て、そこから京成電鉄に乗り換え、堀切菖蒲園駅で降り、フラッシュ美容院へ面接に向かう事になりました。
ところが、そこで私とかっちゃんを待っていたのは、
栄養失調とストレス、極貧の3拍子揃ったインターン生活でした。
父に連れて行かれた美容専門学校
昭和30年代で既にレトロだった校舎
1961年(昭和36年)4月のある朝、父にたった一言「行くぞ」とだけ言われ、
父の自転車の後部座席に乗せられ着いた先は会津若松駅近くの会津高等理容美容専門学校でした。上のモノクロ写真の家屋が私が入学した昭和36年当時の会津高等理容美容専門学校の校舎です。
この伊藤知子の「昭和ノスタルジー・美容師への道」ブログではモノクロの昭和レトロ写真を掲載している訳ですが、
この建物はこの1961年当時で既に昭和レトロ感が出ていました。
いや、当時の私はレトロ感という印象より、
ただでさえ美容師になどなりたくもないのに専門学校に連れて来られている上に、
それまで学校と言えば会津若松ザべリオ学園の綺麗な校舎しか知らなかった私からすれば、この駅前の専門学校はレトロじゃなくてオンボロ校舎にしか見えませんでした。
屋根なんか大雪が降ったら歪みそうな雰囲気。
美容師になどなりたくなく、不貞腐れ気味だった当時の私には実際以上にオンボロ学校に見えましたね。
先述した様に当時私は父に連れて来られ、美容師の道に進むという事を全く乗り気ではないまま、仕方なく教室に入りました。
そこに集う先生方も生徒達も皆素晴らしい表情をしていた
そして私はそこに集う生徒達の顔を一人ずつ見ていきました。
すると、レトロというかオンボロ外観の校舎のイメージとはかなり異なり、
生徒達は皆小奇麗でやる気に満ちた目をした賢そうな人々ばかりでした。
そこには私の様に嫌々来ている様な表情の生徒は一人もいなかったのです。
そして、先生方も皆やる気に満ちており、
見た目もそこそこイケメンのいい男ばかりでした。
急にやる気になった負けず嫌いの私
私は急に気が変わり、やる気になりました。
別に先生方がイケメンだったからではありませんよ?
上にも記しましたが、そこに集う生徒達が皆やる気に満ちていたからなんです。
嫌々来ていたのは私だけで、この時思ったんです。
「この人々に負ける訳にはいかない」と。
負けず嫌いの父と母に似た私が一瞬でその気になる程、
ここに集まっていた生徒達は皆やる気に満ちた素晴らしい表情をしていたのです。
田島町から来ていた「かっちゃん」
そんな中、私、伊藤知子はこの会津高等理容美容専門学校で1961年(昭和36年)春から1962年(昭和37年)の春までの1年間、美容師になる為に実技と学科を勉強していく訳ですが、友達も沢山出来ました。上記モノクロポートレート写真の右側の子、
南会津郡田島町から美容学校に来ていた鳴沢勝美ちゃん(仮名)、
通称「かっちゃん」もその中の一人。
かっちゃんは確か私より1つ下。そして私には一度もノーと言った事が無い程、
私と仲が良く、会津若松の専門学校時代、当時私の文通相相手だった新潟新津の男性のところへも一緒に遊びに行ってくれたり、本当によく一緒に行動してくれていました。
そしてかっちゃんは、卒業時にインターンも私と同じ東京葛飾の美容院を希望してくれる事になります。そしてその事は、後に私にとっては救いとなります。
会津本郷町から来ていた「かねちゃん」
そして美容学校では、後の私の東京での美容師生活でアパートのルームシェアをしてくれる事になる会津本郷町から来ていた石本金美ちゃん(仮名)、通称「かねちゃん」とも知り合い、かっちゃん同様にとても仲良くなった友達の一人です。
(※何故かっちゃんと東京でルームシェア出来なかったのかというと、
実はかっちゃんと住み込みで務めていた東京月島の美容室を私はとある事情で辞める事になるのですが、
その時、私の都合でかっちゃんまでその美容室を辞めさせる訳にはいかなかったからなのです。
だから私はその月島の美容室を辞めた後、アパートを借りる必要がありましたが、
かっちゃんは月島の美容室[住み込み]に残してきたので、ルームシェアは不可能だったのです。決して仲が悪くなったから道が分かれた、という訳ではありませんでした)
尚、当時かねちゃんのお誘いで会津本郷町の自宅へ遊びに行った時、
かねちゃんのところで栽培しているモヤシを手土産に貰った覚えがあります。
それはとても大きいモヤシで、とても美味しかった記憶があります。
かねちゃんのところは、ご両親が本郷焼きをしており、
かねちゃんのお兄さんがモヤシの栽培をしているという事でしたね。
とにかく、かねちゃんは後に私が東京でアパートを借りる時、
本陣は会津若松の美容院で仕事をしていたにも関わらず、
私の提案に応じてくれ、会津から東京に出て来てルームシェアに応じてくれます。
また、専門学校では宮城県の松島や鹽竈神社などへ旅行に行きました。
しかしながら、集合写真に田島のかっちゃんや会津本郷のかねちゃんが写ってないところを見ると、この旅行は自由参加だった様です。
上の塩釜神社前のモノクロ集合写真では、前列向かって左から2番目が当時の私です。
そしてこの旅行で私は、後に文通をする事になる新潟の新津市から来ていた当時20歳の学生、尾曽川昭雄さん(仮名)と知り合います。
文通は 今ならメールやチャット、Skypeなどといったところでしょうか。
「下」モノクロポートレート写真、美容専門学校の旅行の道中、平駅前緑の影というモニュメント像の前で仲良し仲間の一人、六藤世利子さん(仮名)と!
【下】モノクロ3人組ポートレート写真、左から二枝さん(仮名)、六藤世利子さん(仮名)、私「伊藤知子」、宮城県塩竈市「鹽竈神社」にて
この美容専門学校では、かっちゃん、かねちゃん、二枝さん、砂本さん、六藤さん、右藤さん、加田さん、清川さん(総て仮名)その他、素晴らしい仲間達と仲良くなれました。
そして1962年(昭和37年)、会津高等理容美容専門学校卒業の春がやってきます。
土壇場の梯子外し、1年間路頭に迷う
「床屋駄目。パーマ屋ならいい」
ところが、私がザべリオ学園中学を卒業した或る日、
東京の大学に行っていた長兄「あんちゃん」が会津若松の実家に一時帰省したんです。
そしてそのあんちゃんが父母、そして私の前で突然こう言うんです。
「知、床屋は駄目だ」と。
もちろん私はあんちゃんに聞きました。何故突然そんな事を言うのかと。
すると、あんちゃんはこう言いました。
「床屋はお客さんが全部男だから駄目だ」と。
これ、私が想像していなかった理由でした。
これを聞いた父と母はダンマリ。
否定も肯定もせず何も言いません。
私はここで初めて困りました。
ザべリオの高等部にも進学しないと決まった上に、
その代替案として浮上していた床屋の道にも進めない・・・
私は当然あんちゃんに問いました。じゃあなんならいいのか、と。
するとあんちゃんの答えは、パーマ屋ならいい、という事でした。
理由は床屋の逆ですね。
あんちゃん曰く、お客さんが女性ばかりだから、という。
それを聞いた父と母も突然「それがいいべした・・・」
なんて言い始める始末。
私としては、これは梯子を外された感じですね。
何故なら父と母は、私が中学三年の頃、
後の進路として理容師になる事を肯定していたんですから。
しかし、代わりに美容師・・・私には全然よくない話しです。
何故なら、本当はザべリオの友達と同じように私も高校、大学と進みたかったのが本音でしたが、家庭の経済的事情や父の考え方から、とてもその進路は無理だな、
と潔く諦め、とりあえず幼い頃からのちょっとした夢だった床屋さんになり「顔剃り業務」を行なおう!という代替案で妥協していたところ、
床屋は駄目でパーマ屋さん、つまり美容師になれ、という事では、
私のしたかった「顔剃り業務」は無いんですから・・・
私は「顔剃り」が好きで床屋の道に進もう、と思っていたんですから。
これは例えて言うなら、
カレーライスを注文しているお客さんに対し、
「カレーライスは駄目です。ハヤシライスを注文して下さい」と言ってる様なもんではないかと・・・
もちろんこのあんちゃんの反対は、
あんちゃんが私の事を心配してくれて理容師の道に進む事を反対したのだという事はよく理解出来ます。
そして、理容師の代替案が美容師という事だったんでしょう。
確かに理容師でなくても美容師でも同等にお金は稼げるとは思います。
でも、私は貧しいところから商売で成功し呉服屋を開業した父や母とは異なり、
幼い頃から呉服屋の娘として琴を習わせてもらったり、
私学のザべリオ学園に行かせてもらったりとぬくぬくと育ったため、
この頃はまだお金儲けよりはまずは自分の夢を叶えたかったんです。
そうなんです、お金が稼げるならなんでもいい、という状況にはなかったんです。
しかも、私の本当の夢はザべリオの高等部へ進み、大学進学でしたから、
高等部には進まず、床屋の道に進むという事ですら本来の第一希望ではなく、
妥協案だったのですから。
その妥協案だった第二希望も駄目だとなると、
私は困りましたね。ザべリオ学園中等部を卒業し、
一足先にザべリオのクラスメイト達とお別れはしたものの、どうするべきかと。
実はあんちゃんは、東京の大学に行く前、会津高校生だった頃は、
私の床屋さんごっこにとても協力的で肯定的だった上、
先にも言いましたが父と母に至っては、私がザべリオ学園の中等部3年生の終わりごろ、床屋になろうかと話した時、とても肯定的だったのですから!
そんな経緯で、突然の「駄目」でしたから、
私は土壇場で梯子を外された感がありました。
私はやりたい事を失い、ザべリオ学園中等部卒業後、
一年間路頭に迷う事になりました。
私は父に相談し、学習塾にも通わせてもらいました。
翌年高校を受験しようと思ったからです。
何故なら、中等部卒業後の床屋への進路は私の意思で取りやめになった訳ではなく、
他にやる事が無くなったからです。私としても、もう開き直りですね。
父が「高校に行かすお金は無い」と言えばあきらめればいいだけでした。
ところが父は、あの土壇場での梯子外しを「悪い」と思っていたのか、
学習塾には行かせてくれました。
しかし、或る時、父にこう言われました。
「知、勉強では食えね~だ・・・」
この時私はまだ高校に行かせてくれるものだと思っていましたが、
甘かった・・・
そして、ついに・・・
ザべリオを卒業し、一年が来ようとする昭和36年(1961年)の3月、
突然父から、勉強では食べていけないから美容学校に行くように、
と言われました。
あれ、高校は?・・・塾にも行かせてくれていたのにどういう事?
私は、口には出しませんでしたが、正直なところ、えーーーっと思いましたね。
しかも、床屋(理容師)の道ならまだしも、美容師の道・・・
心の中で「美容学校?・・・・・やんだ~~~・・・」と嘆きましたね。
でも、父は密かに、用意周到に計画していたのだと思います。
高校になんか行かず稼げ、という頑固な父の考えそのものです。
私は、もう、「うん・・・」としか言えませんでした。
そして、1か月後の4月のある朝、突然父に「いくぞ」と言われ、
私は気乗りしないまま、心の中では不貞腐れ気味でしたが、
有無を言わさず父の自転車の後部座席に乗せられました。
自転車は神明通りを抜けて、会津若松駅方面へ向かいました。
一足先にザべリオの友達とお別れ
会津若松ザべリオ学園中学時代の私の心境
昭和32年4月、私はザべリオ学園の中学部に上がりました。
中学部に上がると、小学校からの会津若松市内の友達に加え、
喜多方などからも中学受験で何人かの新しい生徒がクラスメイトとして入ってきました。
皆いい子達でしたが、どちらかと言えば喜多方の子達は喜多方の子達同士で行動していました。
或る時私は教室のストーブで手の平を酷く火傷したんですが、
それを見た鈴川さん(仮名)が翌日、私の為に軟膏を持ってきてくれた事がありました。
その軟膏がとてもよく効きました。
鈴川さんのお父さんは喜多方で開業医をしているとの事でした。
私は新しい喜多方からの仲間も含め、概ねクラスメイト皆と仲良くやれていました。
そして、中学3年にもなると、クラスの友達は皆ザべリオ学園高校部に上がった後はどこの大学を目指すかなどの話題が出始めていました。
或るクラスメイトは「私はお茶の水女子大に行く」などという感じで具体的に志望大学名まで挙がっていました。
ところが私は、3年前会津高校3年生だった成績優秀のあんちゃんが、
父から大学進学をあれほど大反対されていた光景を見ていた為、
この頃にはもう”私は大学進学は無理だろう”と思いました。
なので私は家の事情からザべリオの高等部に進む意味もあまりないな、
と感じてもいました。クラスの皆が高等部へ行き、
そして東京の大学を目指す事を目標にしている中、
なんとなく私だけ皆とは異なる方向へ行かなければならない事はやはりちょっぴり寂しい気持ちにはなってはいましたが、父の考えが「勉強では食えねえだ」というものである限り、大学は無理でしょう。
とは言え、気持ちの切り替えが早い私は、
そんな事でいちいち落ち込んでいた訳でもありません。
それならそれで幼い頃からの夢の一つでもあった「床屋さん」の道に進めばいい、
と、気持ちを切り替えていたからです。
まあ、大学に行かせてもらえる空気が無いから高校にも行く必要性を感じなかったと言えばかっこいいですが、
実際には高校すら行かせてもらえるかどうか微妙な空気に包まれていたから、
私は高校進学はやめ、床屋さんの道にでも進むか、と思い始めていたというのが本当のところです。
しかし、学費面から大学進学は厳しいとしても高校は・・・
ところがこの頃には高校進学もさせてもらえるかどうか微妙な空気になっていたのです。
兄の大学資金が元で家庭内不和へ
何故なら、長兄のあんちゃんを東京の大学に行かせる事になってから、
呉服店だけでは大学資金が経済的に厳しい為、
父が水商売のプロの女性を雇い、会津若松市の末広町に飲み屋を出したのですが、
それが元で母と父が毎日取っ組み合いの夫婦喧嘩になり、
結局、半年で末広町の店は畳むことになるという、
兄の大学資金が元でこの様な家庭内不和が起きていたからなのです。
そして、父は家に戻らず、その女性の家に帰るという事態にまで父と母の夫婦仲は悪化してしまっていたのです。
そして、こんな家庭内不和の中、父もストレスだったのでしょう。
当時若松商1年で、成績はいいけれど、言わば学校で番長的存在だった、というか番長だった二番目の兄ひらあきちゃんへの父からの風当たりも強くなり、
ひらあきちゃんは父から「この伊藤家で不良が1人でも出たら、それには二度と伊藤家の敷居は跨がせねえ!」等と言われたりなど、成績が良くても父からは冷遇されていると思ったのか、長兄の大学の学費で家計に苦労し父と母も毎日喧嘩、
自分は成績がよくてもそんな風に言われる・・・そんな状況で空気を読んだ2番目の兄のひらあきちゃんは私にこう言いました。
「兄貴は大学へ行かせてもらい、知はザべリオに行かせてもらい、おこちゃんは体が弱いから甘やかされ・・・俺は真ん中でどうでもいいんだ。要は親父もお袋も俺なんかどうでもいいんだ」と言い、
もうこの家を出て東京に行って稼ぐほうがいいと感じ、
自分が高校も辞めれば学費もかからなくなるからと、
さっさと若松商を中退して東京に出て行ってしまいました。
このひらあきちゃんの考え方や行動パターンは、
実は父の遺伝だろうと思います。
父は柳津の新聞屋の4人兄弟の次男でしたが、自分の居場所が無いと感じ、
さっさと丁稚奉公に出て呉服販売で成功した男だったのです。
さて、こんな状況の中、女の私がそのまま私学の高等部へ進学するとか、
当時の我が家の雰囲気ではちょっと言いだし辛い・・・という空気でした。
しかも2番目の兄は、こういう家庭内事情の空気を読んで若松商を中退して東京に出て行っている。
そして、私の下の弟「おこちゃん」も翌年から中学に上がりますから、
我が家は資金繰りで更に家庭内の揉め事が勃発するのは中学生の私でも想像がつきました。
という事で、私は大学どころか高等部への進学も諦めようか、これはしょうがないな、
と、ある程度はあきらめがついていた訳です。
そして私は1960年(昭和35年)、ザべリオ学園中学校を卒業と同時に、
仲が良かったクラスメイトより一足先に幼稚園、小学校、中学校と一貫して在学していたザべリオ学園とお別れするに至ります。
クラスメイトの多くはザべリオ学園高等部へ進んだんじゃないでしょうか。
中には会女(かいじょ)などに進学した友達もいるとは思いますが、
とりあえず、幼稚園→小学校→中学校と在籍していながら高校へ行かなかったのは多分私ぐらいだと思います。
さてまあ、ここまではね、東京の大学に行ってる長兄の学費とか、
私学に行かせてもらってた私の学費とか、
これから学費が必要となる弟の事とかもあるし、
そんな状況の中、2番目の兄は働くために高校を中退して東京に出て行ったし、
こんな状況では私も更なる進学は難しいな、という事で、
ザべリオ中等部を出た後は私も2番目の兄の様に働こう、と割とすんなり思うに至り、
じゃあ、幼い頃からの夢みたいなものだった「床屋さん」の道に進もうか、
と思ったのは割と自然な流れでしたね。
私は気持ちの切り替えもすんなり出来ていて、
そして、それに関しては父も母も肯定的でした。
ところがところが・・・